松崎町の中でも、実はスタンダードな面とハードな面を兼ね備えた地域、松崎の沢の口という集落がある。
天ヶ森の懐、山麓でもあるこの地域、松崎観音堂に代表される観光名所もございますが、古の時代は忍峠を越えて附馬牛地区への街道でもあり、人々の往来があった時代の名残等も今に伝えられている。
忍峠の登り口・・忍峠の石碑群
すべて金比羅様関連の石碑である・・・金比羅参りが盛んだったことを伺われる。
忍峠方面へは行かずに松崎観音堂方面へ向かうと・・・
観音の老桜
樹齢8百年と伝えられる桜の小樹
どんな歴史を見てきたのだろう・・・元文の頃(1736~1740)松崎観音は桜の名所だったと伝えられ、当時の面影が偲ばれる。
松崎の水車小屋
この水車小屋は近年建てられた新しい建物であろう・・・。
松崎観音堂
遠野七観音のひとつ「二番麦沢山松崎寺」
天台宗の高層、慈覚大師円仁が嘉承4年(851)遠野において一本の木から七つの観音像を彫ったとされ、そのひとつを祀ったのが松崎観音と伝えられる。
現存する尊像は十一面観音像・・・慶長11年(1606)の銘文があるといわれる。
嘉承年間、慈覚大師の遠野来訪はさておき、由緒ある古の歴史を伝える観音堂には間違いない。
さて、寄り道をいたしましたが、金比羅様の石碑群のところへ戻り、忍峠へ・・・
忍峠への道、沢ひとつを隔てた東側山野には、考安寺、祥雲寺の寺跡があったといわれる。また駒形神社、さらに峰伝いには矢崎に通じる山道が残され、経塚も見ることができる。
忍峠・・・
その昔、峠の茶屋があったといわれている。往時は3軒を数えたそうで、東禅寺の坊主が茶屋の女めあてに通い詰めていたと伝えられております。
茶屋の一軒は大正時代まで現存していたといわれている。
また沢の口にも麓の茶屋があったといわれ、こちらも繁盛していたと伝えられる。
画像の右の石碑・・・山ノ神は読めましたが、後の文字は忘れてしまいました・・・汗・・・。
御影石の碑としては岩手県内最古のものとか・・確認はしていませんが銘文には天文6年(1537)と刻まれているとか・・・次回確認したいと思います。
左の祠は山猫さんが石上山の登山で言っておられた量産型なんとか・・でしょう・・笑
峠を附馬牛側に下りますと安居台に出ますが、往時は上記画像の左手をさらに山道を進んで別場所に出たものかもしれない・・。
いずれ安居台までは車で往来できますが、夏場は草木が山道を塞ぐところもあって、車は傷だらけになるものと思います。
「いだますぐね」と思う人はどうぞ走破してみてください。
里まではものの10分もかかりませんから・・・・。
附馬牛町安居台からの分岐点
右が忍峠・・・左が矢崎へ・・。
私は右から下って来て「ギックラ」と右折して矢崎へ・・・・。
安居台側の念仏供養等・・・享和三年(1803)の建立とある。
阿曽沼時代及び遠野南部氏時代の初期の頃は、紫波、稗貫、宮守、江刺の方面から来た旅人等は綾織砂子沢から附馬牛の東禅寺、大萩と出て天ヶ森の山麓を通って忍峠を越えて松崎へ、そして横田城下へ出たのであろう・・・当時の面影を偲びながらちょっとだけ山猫になれたかな・・・と思ってます。
天ヶ森の懐、山麓でもあるこの地域、松崎観音堂に代表される観光名所もございますが、古の時代は忍峠を越えて附馬牛地区への街道でもあり、人々の往来があった時代の名残等も今に伝えられている。
忍峠の登り口・・忍峠の石碑群
すべて金比羅様関連の石碑である・・・金比羅参りが盛んだったことを伺われる。
忍峠方面へは行かずに松崎観音堂方面へ向かうと・・・
観音の老桜
樹齢8百年と伝えられる桜の小樹
どんな歴史を見てきたのだろう・・・元文の頃(1736~1740)松崎観音は桜の名所だったと伝えられ、当時の面影が偲ばれる。
松崎の水車小屋
この水車小屋は近年建てられた新しい建物であろう・・・。
松崎観音堂
遠野七観音のひとつ「二番麦沢山松崎寺」
天台宗の高層、慈覚大師円仁が嘉承4年(851)遠野において一本の木から七つの観音像を彫ったとされ、そのひとつを祀ったのが松崎観音と伝えられる。
現存する尊像は十一面観音像・・・慶長11年(1606)の銘文があるといわれる。
嘉承年間、慈覚大師の遠野来訪はさておき、由緒ある古の歴史を伝える観音堂には間違いない。
さて、寄り道をいたしましたが、金比羅様の石碑群のところへ戻り、忍峠へ・・・
忍峠への道、沢ひとつを隔てた東側山野には、考安寺、祥雲寺の寺跡があったといわれる。また駒形神社、さらに峰伝いには矢崎に通じる山道が残され、経塚も見ることができる。
忍峠・・・
その昔、峠の茶屋があったといわれている。往時は3軒を数えたそうで、東禅寺の坊主が茶屋の女めあてに通い詰めていたと伝えられております。
茶屋の一軒は大正時代まで現存していたといわれている。
また沢の口にも麓の茶屋があったといわれ、こちらも繁盛していたと伝えられる。
画像の右の石碑・・・山ノ神は読めましたが、後の文字は忘れてしまいました・・・汗・・・。
御影石の碑としては岩手県内最古のものとか・・確認はしていませんが銘文には天文6年(1537)と刻まれているとか・・・次回確認したいと思います。
左の祠は山猫さんが石上山の登山で言っておられた量産型なんとか・・でしょう・・笑
峠を附馬牛側に下りますと安居台に出ますが、往時は上記画像の左手をさらに山道を進んで別場所に出たものかもしれない・・。
いずれ安居台までは車で往来できますが、夏場は草木が山道を塞ぐところもあって、車は傷だらけになるものと思います。
「いだますぐね」と思う人はどうぞ走破してみてください。
里まではものの10分もかかりませんから・・・・。
附馬牛町安居台からの分岐点
右が忍峠・・・左が矢崎へ・・。
私は右から下って来て「ギックラ」と右折して矢崎へ・・・・。
安居台側の念仏供養等・・・享和三年(1803)の建立とある。
阿曽沼時代及び遠野南部氏時代の初期の頃は、紫波、稗貫、宮守、江刺の方面から来た旅人等は綾織砂子沢から附馬牛の東禅寺、大萩と出て天ヶ森の山麓を通って忍峠を越えて松崎へ、そして横田城下へ出たのであろう・・・当時の面影を偲びながらちょっとだけ山猫になれたかな・・・と思ってます。