松崎町宮代といえば、近年は東洋大学との交流とかでグリーンツーリズムの先進地域として名を馳せておりますが、史跡的には元八幡宮が鎮座しており、かつては遠野の中心たる位置付けだったかもしれません。
しかし、これらだけではないこと、以前から宮代に知られざる館が眠っていること、このことは承知しながらも、伝安倍時代とかで遺溝がない館跡だろうとタカをくくっておりましたので、そのうちに・・・・こんな感じておりました。
さて、この度入手した資料によれば、図面的にはかなり高感度な館跡に見受けられる、まずは松崎町内の館跡の充実を図るべく、突撃して参りました。
宮代館(仮称)
考え付く山といえば、この山野が思い浮かびますが、まさしくこの山野が館跡でもありました。
館跡下の知り合いを訪ねるべく、空地に愛車を駐車。
幸いに知り合いは、庭で一服タイムだったらしく、まずは声掛け・・・・。
「この山、舘山だずな」・・・「ほだっ、なすておべでら」・・・・
館に関する質問をすると、立派な堀がめぐらされ、山頂に立てばその凄さがわかるすばらしい館であると教えられる。
子供の頃の遊場で、地元の人しか館跡であるということは知らないはずだ・・・とのこと。
ですから小生が訪ねて行ったことに対して、不思議な顔をしておりました・・・笑
しかも地味な館跡調べなんて、想像もつかないとか・・・汗・・・仕事上の体力練成も兼ねての山野徘徊でもあるとお答えしておきました。
早速、登口を教えられ攻城開始・・・しかし、教えられたところではなく、そのまま斜面を力攻めで山頂を目指す・・・・。
む・むむむむむ・・・・空掘発見
しかも二重堀だっ・・・・東側の空掘跡
空掘は二重堀で西側は大きく、険しい竪堀となって山麓へ駆け下っており、竪堀は西部分に3本確認。
山頂は5段程度の帯郭が交互に重なり、割と広めの平場が展開されている。
なかなか見応えのある館跡でもあり、西側の竪堀3本、さらに南側の竪堀が印象的でもありました。
なお、資料の堀の数やら形状は、かなり違いがあって、安に強力なすばらしい資料だからといってこれが全てではないこと、今回でわかりました。
いずれ、自分で確かめる、これが大切だと痛感しております。
さて、下山して知り合いにご挨拶、その中で、さらに奥にはすり鉢状の広い場所があるとのこと、確かに資料にも畑か何かに利用しただろうという見解が付け加えておりました。
今回は、そこまで手が回りませんでしたが、図面等作成の為に再訪の予定でもあり、その際は、さらに詳しく探訪調査したいと思ってます。
安倍時代ではなく阿曾沼時代、この匂いがかなり強く感じた館でもあります。
ついでに宮代蝦夷防御性集落跡も探訪と思い、知り合いに訪ねますと、高場との境の墓地にある大きな木から真っ直ぐいけば林道があって、後は平坦な山道を進んで途中から右へ折れればあるとのこと、早速、向いましたが、なな・・ななんと、此処は誰かさんのノギハではありませんか・・・・笑
さてさて、山野に入って直ぐ不思議なものが・・・・
これは館跡の一部か?・・・・塚か?・・・・。
祭壇跡かと思ってしまいましたが、コンクリート製、近年のものですが、なんだべっ・・・笑・・・でもこの界隈も蝦夷の集落跡の一部と資料にありました。
道なりに進むと、確かに大穴が数箇所、土塁跡らしい形状に、堀跡か思わせる形状が確認できましたが、積雪でよくわからないがホントのところ・・・・。
直ぐ下には、山ノ神様が・・・・おそらくこの界隈に間違いないだろうと思いましたが、墓地から真っ直ぐ林道をかなり進み、途中から右に折れて、山ノ神様の祠から下に降りましたが、かなりの距離を徒歩移動したことになります・・・・といっても2キロ程度ですがね・・・・犬には吠えられるは、道行く軽トラのオジさんには不審者のような目で見られるは、長靴には雪がゴッパリ入るは・・・・宮代徘徊も疲れます・・・・汗
誰かさんのノギハ近くの風景・・・・
旗指物な木
そして六角牛
しかし、これらだけではないこと、以前から宮代に知られざる館が眠っていること、このことは承知しながらも、伝安倍時代とかで遺溝がない館跡だろうとタカをくくっておりましたので、そのうちに・・・・こんな感じておりました。
さて、この度入手した資料によれば、図面的にはかなり高感度な館跡に見受けられる、まずは松崎町内の館跡の充実を図るべく、突撃して参りました。
宮代館(仮称)
考え付く山といえば、この山野が思い浮かびますが、まさしくこの山野が館跡でもありました。
館跡下の知り合いを訪ねるべく、空地に愛車を駐車。
幸いに知り合いは、庭で一服タイムだったらしく、まずは声掛け・・・・。
「この山、舘山だずな」・・・「ほだっ、なすておべでら」・・・・
館に関する質問をすると、立派な堀がめぐらされ、山頂に立てばその凄さがわかるすばらしい館であると教えられる。
子供の頃の遊場で、地元の人しか館跡であるということは知らないはずだ・・・とのこと。
ですから小生が訪ねて行ったことに対して、不思議な顔をしておりました・・・笑
しかも地味な館跡調べなんて、想像もつかないとか・・・汗・・・仕事上の体力練成も兼ねての山野徘徊でもあるとお答えしておきました。
早速、登口を教えられ攻城開始・・・しかし、教えられたところではなく、そのまま斜面を力攻めで山頂を目指す・・・・。
む・むむむむむ・・・・空掘発見
しかも二重堀だっ・・・・東側の空掘跡
空掘は二重堀で西側は大きく、険しい竪堀となって山麓へ駆け下っており、竪堀は西部分に3本確認。
山頂は5段程度の帯郭が交互に重なり、割と広めの平場が展開されている。
なかなか見応えのある館跡でもあり、西側の竪堀3本、さらに南側の竪堀が印象的でもありました。
なお、資料の堀の数やら形状は、かなり違いがあって、安に強力なすばらしい資料だからといってこれが全てではないこと、今回でわかりました。
いずれ、自分で確かめる、これが大切だと痛感しております。
さて、下山して知り合いにご挨拶、その中で、さらに奥にはすり鉢状の広い場所があるとのこと、確かに資料にも畑か何かに利用しただろうという見解が付け加えておりました。
今回は、そこまで手が回りませんでしたが、図面等作成の為に再訪の予定でもあり、その際は、さらに詳しく探訪調査したいと思ってます。
安倍時代ではなく阿曾沼時代、この匂いがかなり強く感じた館でもあります。
ついでに宮代蝦夷防御性集落跡も探訪と思い、知り合いに訪ねますと、高場との境の墓地にある大きな木から真っ直ぐいけば林道があって、後は平坦な山道を進んで途中から右へ折れればあるとのこと、早速、向いましたが、なな・・ななんと、此処は誰かさんのノギハではありませんか・・・・笑
さてさて、山野に入って直ぐ不思議なものが・・・・
これは館跡の一部か?・・・・塚か?・・・・。
祭壇跡かと思ってしまいましたが、コンクリート製、近年のものですが、なんだべっ・・・笑・・・でもこの界隈も蝦夷の集落跡の一部と資料にありました。
道なりに進むと、確かに大穴が数箇所、土塁跡らしい形状に、堀跡か思わせる形状が確認できましたが、積雪でよくわからないがホントのところ・・・・。
直ぐ下には、山ノ神様が・・・・おそらくこの界隈に間違いないだろうと思いましたが、墓地から真っ直ぐ林道をかなり進み、途中から右に折れて、山ノ神様の祠から下に降りましたが、かなりの距離を徒歩移動したことになります・・・・といっても2キロ程度ですがね・・・・犬には吠えられるは、道行く軽トラのオジさんには不審者のような目で見られるは、長靴には雪がゴッパリ入るは・・・・宮代徘徊も疲れます・・・・汗
誰かさんのノギハ近くの風景・・・・
旗指物な木
そして六角牛