昨夜のワインが効いているとは思わなかったが、軽く頭痛がして少し体調不良につき朝食は食べないで、午前中予定されていた研修会に出席。
お昼近くに研修会が終了したので、午後は小友町内の館跡をふたつほど探訪と思い立ち、一路、小友に向かう。
朝食抜きだったので、続石にお腹が減ってきた。
そこで産直ともちゃんにて昼食・・・・・。
そばセット・・・ごしゃくえん也
さて、新谷館かそれとも鮎貝館か、蕎麦を食べながら考えていたが、空が真っ青だったので、とりあえず画像を数枚・・・・。
岩龍神社
奥友館跡
食後の一服をしながら、どちらに向うべきか、またもや思案・・・・体調もイマイチ、パッとしないので、ここは山野に入りやすく歩きやすい鮎貝館に決定、早速現地に向いました。
思い起こせば、2003年11月末、歴史仲間で東京都の稲用さん、八戸市の藤九郎さんと3人合同で初めての城館跡探訪を実施、知られざる遠野の館と称してご案内した一番最初の館跡が鮎貝館でありました。
みぞれが降る中、山野を探索、これといった遺溝の発見に至らず、ただ帯郭的な数段の段差から、ここが館跡には間違いないだろうという結論でもありましたが、その後の調査は実施していなかったので、今回は範囲を広げて山頂まで登ってみましたが、今回も遺溝等の発見はなかった。
○鮎貝館(小屋平館)
文禄年中、伊達政宗配下の出羽国在住、鮎貝志摩守が手勢を率いて小友鮎貝地区に密かに侵入、以来舘を築いて数年間在舘したと伝えられている。
この鮎貝氏の小友西地域領有は、一説には阿曽沼主家の南部氏への備えと鱒沢氏のような親南部家側の諸氏への対抗とみられ、阿曾沼氏は葛西氏に代わった伊達政宗の力を頼み、鮎貝地区に伊達氏の勢力を密かに招き入れたものと解釈されている。
鮎貝氏とは伊達家家臣の鮎貝氏の一族とみられ、当地の鮎貝という地名に由来するものともいわれています。
伊達家家臣の鮎貝氏縁の山形県内の鮎貝の地名を持つ地域と小友町鮎貝地区との交流が近年行われたようですが、小友町鮎貝の地名が出羽国出の鮎貝一族に由縁するものと言われますが、真相は不明・・・・。
さて、館跡をみると、堀や明確な土塁といった防御施設が見当たらない、また鱒沢氏やら南部信直に対抗してとある割には貧弱に受け取れる館跡でもある。
むしろ対南部というより対伊達といった意味合いがあって、江刺境の五輪峠方面への監視といった役割であったのではないのか、鮎貝志摩守なる武将の名も語られますが、阿曾沼広長が気仙へ下った際に附き従ったとも伝えられ、鮎貝一族は気仙沼にその命脈を留めたともいわれますが、仔細は不明であり、かなりあやふやでもあるようです。
ちなみに鮎貝氏のことを通称、小屋平と言うとのことで、小屋平館とも呼ばれている。
いずれ鮎貝館は館(城)というより屋敷といった雰囲気の方が強いと思いました。
館跡である山野、南側中腹の平場
かなり大きめで広々とした平場があるが南斜面の下部は三段の帯郭、北、西方面は、土塁と思しき形状が確認できるが、よくわからずが正直なところです。
さて、ふたつの出会いの一つ目・・・・。
この鮎貝館を探訪していた際に、背後で「ガサ、バギッ」と落葉を踏む音、そして木枝を折るような音が聞こえる。
下の方からであるがだんだん近づいてくる・・・・汗・・・やがて水色ぽい服装の男性が斜面を登ってくるのが見える。
これは地元の人か地権者に違いない、別にこちらとしては悪いことをしている訳ではないが、何か言われたら謝ろう・・・いやっ、知らない振りして質問でもして誤魔化そうなんて考えていた・・・笑
その男性の開口一番は、挨拶と共に「館跡調査ですか?」と訪ねられる。
こちらとしては、「はいっ館跡調べです」と答える。・・驚きと安心・・・。
男性の手にはファイルが握られていたが、チラッと見えた文字には火渡館、新谷館とか書かれていたので、同好の士と判明・・・・嬉
その男性は盛岡から来たとのことで、小友町内の新谷館を調べに来たそうですが、途中の一の倉館が気になって資料の地図を頼りに来たらここ鮎貝に着いてしまったとのこと。
下に標柱があったので、ついでに此処も見てみようと思ったとのことで、なんでも釜石の狐崎館跡に十数回通っているそうで、館主といわれる新谷肥後縁の遠野の新谷館との共通点を見つけるためと言っておられました。
さてさて、館跡探訪に時折、ほんのたまに仲間達と出かけることはあっても山野で同好の士と出会うということは、皆無でしたので、凄く感激した次第でした。
山中で30分以上も岩手の城舘跡やら遠野の館の魅力やらを相互に話すことができて、かなり嬉しかったです。
車を駐車した場所もほぼ同じであったので館跡を少し調べながら下山、車に戻ると名刺交換をして別れました。
なかなか良い出会いであったと思っております。
それともうひとつの出会い・・・
この方は盛岡のTさんとのことですが、なんか面白そうな資料のコピーを持っている。
聞くと遠野の図書館でコピーしていただいたとか?・・・よくよく見ると・・・・かなり驚愕・・・・私が一覧としてサイトに掲載した際に使用した「遠野市における館・城・屋敷調査報告書」の中身のコピーと判明・・・・汗
どうりで菊池春雄氏、荻野氏の両先生が半年もかけて調査したにも関らず、一覧とその際の感想だけで報告というのもおかしいと実は思っていたのも正直な話・・・。
ひとつひとつの館跡にはその概要と簡単な考察と共に地図と要図が書かれてある・・・・この存在をもっと早く知っていれば、場所の特定で悩むことはなかったと悔やんでおります。
まっ、でもおかげで、館跡がありそうな山野の雰囲気やら形状から自力で館跡を見つけるといった感覚が育まれたといえばその通りでもあります。
でっ、早速図書館に行って事の仔細を聞いていただきましたが、在庫は皆無、一冊だけ博物館にあるということで、見せていただきました。
誰か、茶系の冊子ですが持っていたらお譲り願えませんか?是非にほしい逸品でもあります。
よろしくお願いします。
一部コピーをいただきました。
おまけ
きのこ発見
きのこ採りをほとんどしませんから、食用も毒もほとんどわかりません。
ナメコの一種か?と思いましたが、採るのは止めておきました・・・汗
お昼近くに研修会が終了したので、午後は小友町内の館跡をふたつほど探訪と思い立ち、一路、小友に向かう。
朝食抜きだったので、続石にお腹が減ってきた。
そこで産直ともちゃんにて昼食・・・・・。
そばセット・・・ごしゃくえん也
さて、新谷館かそれとも鮎貝館か、蕎麦を食べながら考えていたが、空が真っ青だったので、とりあえず画像を数枚・・・・。
岩龍神社
奥友館跡
食後の一服をしながら、どちらに向うべきか、またもや思案・・・・体調もイマイチ、パッとしないので、ここは山野に入りやすく歩きやすい鮎貝館に決定、早速現地に向いました。
思い起こせば、2003年11月末、歴史仲間で東京都の稲用さん、八戸市の藤九郎さんと3人合同で初めての城館跡探訪を実施、知られざる遠野の館と称してご案内した一番最初の館跡が鮎貝館でありました。
みぞれが降る中、山野を探索、これといった遺溝の発見に至らず、ただ帯郭的な数段の段差から、ここが館跡には間違いないだろうという結論でもありましたが、その後の調査は実施していなかったので、今回は範囲を広げて山頂まで登ってみましたが、今回も遺溝等の発見はなかった。
○鮎貝館(小屋平館)
文禄年中、伊達政宗配下の出羽国在住、鮎貝志摩守が手勢を率いて小友鮎貝地区に密かに侵入、以来舘を築いて数年間在舘したと伝えられている。
この鮎貝氏の小友西地域領有は、一説には阿曽沼主家の南部氏への備えと鱒沢氏のような親南部家側の諸氏への対抗とみられ、阿曾沼氏は葛西氏に代わった伊達政宗の力を頼み、鮎貝地区に伊達氏の勢力を密かに招き入れたものと解釈されている。
鮎貝氏とは伊達家家臣の鮎貝氏の一族とみられ、当地の鮎貝という地名に由来するものともいわれています。
伊達家家臣の鮎貝氏縁の山形県内の鮎貝の地名を持つ地域と小友町鮎貝地区との交流が近年行われたようですが、小友町鮎貝の地名が出羽国出の鮎貝一族に由縁するものと言われますが、真相は不明・・・・。
さて、館跡をみると、堀や明確な土塁といった防御施設が見当たらない、また鱒沢氏やら南部信直に対抗してとある割には貧弱に受け取れる館跡でもある。
むしろ対南部というより対伊達といった意味合いがあって、江刺境の五輪峠方面への監視といった役割であったのではないのか、鮎貝志摩守なる武将の名も語られますが、阿曾沼広長が気仙へ下った際に附き従ったとも伝えられ、鮎貝一族は気仙沼にその命脈を留めたともいわれますが、仔細は不明であり、かなりあやふやでもあるようです。
ちなみに鮎貝氏のことを通称、小屋平と言うとのことで、小屋平館とも呼ばれている。
いずれ鮎貝館は館(城)というより屋敷といった雰囲気の方が強いと思いました。
館跡である山野、南側中腹の平場
かなり大きめで広々とした平場があるが南斜面の下部は三段の帯郭、北、西方面は、土塁と思しき形状が確認できるが、よくわからずが正直なところです。
さて、ふたつの出会いの一つ目・・・・。
この鮎貝館を探訪していた際に、背後で「ガサ、バギッ」と落葉を踏む音、そして木枝を折るような音が聞こえる。
下の方からであるがだんだん近づいてくる・・・・汗・・・やがて水色ぽい服装の男性が斜面を登ってくるのが見える。
これは地元の人か地権者に違いない、別にこちらとしては悪いことをしている訳ではないが、何か言われたら謝ろう・・・いやっ、知らない振りして質問でもして誤魔化そうなんて考えていた・・・笑
その男性の開口一番は、挨拶と共に「館跡調査ですか?」と訪ねられる。
こちらとしては、「はいっ館跡調べです」と答える。・・驚きと安心・・・。
男性の手にはファイルが握られていたが、チラッと見えた文字には火渡館、新谷館とか書かれていたので、同好の士と判明・・・・嬉
その男性は盛岡から来たとのことで、小友町内の新谷館を調べに来たそうですが、途中の一の倉館が気になって資料の地図を頼りに来たらここ鮎貝に着いてしまったとのこと。
下に標柱があったので、ついでに此処も見てみようと思ったとのことで、なんでも釜石の狐崎館跡に十数回通っているそうで、館主といわれる新谷肥後縁の遠野の新谷館との共通点を見つけるためと言っておられました。
さてさて、館跡探訪に時折、ほんのたまに仲間達と出かけることはあっても山野で同好の士と出会うということは、皆無でしたので、凄く感激した次第でした。
山中で30分以上も岩手の城舘跡やら遠野の館の魅力やらを相互に話すことができて、かなり嬉しかったです。
車を駐車した場所もほぼ同じであったので館跡を少し調べながら下山、車に戻ると名刺交換をして別れました。
なかなか良い出会いであったと思っております。
それともうひとつの出会い・・・
この方は盛岡のTさんとのことですが、なんか面白そうな資料のコピーを持っている。
聞くと遠野の図書館でコピーしていただいたとか?・・・よくよく見ると・・・・かなり驚愕・・・・私が一覧としてサイトに掲載した際に使用した「遠野市における館・城・屋敷調査報告書」の中身のコピーと判明・・・・汗
どうりで菊池春雄氏、荻野氏の両先生が半年もかけて調査したにも関らず、一覧とその際の感想だけで報告というのもおかしいと実は思っていたのも正直な話・・・。
ひとつひとつの館跡にはその概要と簡単な考察と共に地図と要図が書かれてある・・・・この存在をもっと早く知っていれば、場所の特定で悩むことはなかったと悔やんでおります。
まっ、でもおかげで、館跡がありそうな山野の雰囲気やら形状から自力で館跡を見つけるといった感覚が育まれたといえばその通りでもあります。
でっ、早速図書館に行って事の仔細を聞いていただきましたが、在庫は皆無、一冊だけ博物館にあるということで、見せていただきました。
誰か、茶系の冊子ですが持っていたらお譲り願えませんか?是非にほしい逸品でもあります。
よろしくお願いします。
一部コピーをいただきました。
おまけ
きのこ発見
きのこ採りをほとんどしませんから、食用も毒もほとんどわかりません。
ナメコの一種か?と思いましたが、採るのは止めておきました・・・汗