「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

勤皇五世

2007-11-09 20:50:06 | 歴史・民俗
 年に2度程、鍋倉城址二の丸にある遠野南部家歴代墓所を訪れている。
 定期的に時期を決めているわけでもないが、春と秋といった感じながら、以前からホームページにて遠野南部氏について扱っておりまして、妄想やら私見が入り混じり、心ばかりのお詫びとご報告といった意味合いで手を合わせておりました。

 でっ、ここ最近、ぶれんどの皆さんが市民センター付近をエントリーしており、それにつられて思い出したかのように、甚だ失礼な発端ですが、本日お参り方々、画像を数枚撮らせて頂きました。



 遠野南部家歴代当主並びにそのご家族の墓所
 
 大工町の大慈寺にあったものを昭和48年に移された。




 二の丸御門跡付近の紅葉・・・・色あせしておりますが、既に落葉盛んです。



 南部神社






 
 遠野南部歴代8世を祭神としている




 「勤皇五世」

 4代師行公~8代政光公が勤皇五世となっております。

 
 武家政権の時代、すなわち徳川治世が崩壊し、明治維新が成って明治の世が訪れると明治新政府は、南北朝時代の南朝の正統性を認める立場をとり、北朝は足利尊氏等、足利方の傀儡とみる立場との見解があったようです。

 このため、南朝に忠誠を尽くしたかつての武家等や先祖を持つ家々に爵位を贈る、尊王、勤皇がもてはやされた時代でもありました。

 遠野南部家歴代5代は、建武親政の時から南北朝合一が成る元中9年(1392明徳3)まで、一貫して南朝方として北奥羽の地で南軍の孤塁を守り通し、またこれらを物語、綸旨やら教書といった古文書を数多く持っていたことによって(遠野南部家文書)明らかであります。

 勤皇五世歴代に関しては詳しくは記述はいたしませんが、必ずしも所伝でいう内容と記録等の解読による考察とでは違いも顕著で、むしろ私は史料による見解を重視する考え方でもあります。

 このことは更新が停滞気味ですが別家サイトの「遠野南部氏物語」にて若干記述しておりますし、今後も引き続き研究調査をしていくつもりでもあります。


 あまり、此処で遠野南部家の歴史を「ばほめがすて」も、難しいとか理解するに時間が要するともいわれそうですし、答えに窮する質問があっても大変ですからね・・・・汗








 余談ですが、此処鍋倉城に江戸時代、遠野南部歴代当主やそのご家族が住んでいたと思う方々も多いと思いますが、実は歴代当主(城主)は盛岡の遠野屋敷に居て、無論奥方や子等ご家族は盛岡に居りました。

 遠野へはお国入りと称して、結婚された時とか何か特別な行事があった時に限られ、一生の内に1、2度位しか領国たる遠野に来ていないという当主がほとんどであったそうです。
 亡くなられた後に遠野へ葬られる、子供達の中には一度も遠野を見ずに亡くなられる方々も多かったものと思います。

 隠居後に遠野で過された歴代も若干確認されますが、鍋倉城は家老加判の新田氏を中心に重臣達が守っていたことになります。





 皆さんにつられて・・・・



 視点は銀杏ではありません・・・鍋倉城の守り、堀の役目の来内川・・・・笑




 おまけ1

 釜石通いが続いてますが、何か忘れている、釜石といえば・・・・?・・・どこか気にかかっていたが、ようやく思い出した。



 
 甲子柿

 これこれ・・・「どふっ」とした食感がたまりましぇん。
 マヤマヤずのも一気に吹き飛んだっ・・・笑



 おまけ2


 数が増えて橋の端から次ぎの橋まで・・・・




コメント (14)
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