

遠野とその周辺地域の中世城館跡探訪をひとつの趣味としている小生であるが、以前から是非とも見てみたい、探訪したいと念願していた史跡に福島県伊達郡内、国見町に残されている「阿津賀志山防塁」がありました。
宮城県と福島県との境付近であるということで、岩手の遠野からなんとか行け付ける場所であるも、それでも何かの用とか、そのついでというわけにもいかず、その思いだけで、なかなか出かけることは叶わず状態、機会はこちらで作るものとはいいますが、思い立ったらが吉日という例えもあり、今回、時間的な制約はありましたが、やっと見学することができました。
阿津賀志山(厚樫山)麓の防塁跡



主に二重の空堀と三重の土塁によって構成されている防塁、年月による風化は避けられない現実ではありますが、自分的には残存度良好といった思いでもあり、凄いものを見させていただいたという思いが強く意識されました。
攻める鎌倉軍が陣を敷いた福島市内方面

阿津賀志山麓から阿武隈川岸までの約3.5キロにわたって築かれた防塁であるが、東北本線(鉄道)、国道4号線、その他農地開発等で、年月を重ねるうちにその遺構のほとんどが消滅という状態でありますが、阿津賀志山(厚樫山)麓の始点部分と南側の終点付近にその遺構跡が残されている。
南側部分の遺構





厚樫山方向

文治5年(1189)、奥州平泉の藤原氏征討のため、源頼朝は御家人達に同年7月までに軍を整え鎌倉に参集せよと命じた。
一方、平泉の藤原泰衡は、鎌倉方の動向を察知すると伊達郡と刈田郡の境に位置する阿津賀志山に堅固な防備施設を構築、さらに山麓から阿武隈川岸までの大防塁を築いて鎌倉軍の来攻に備えていた。
同年7月、鎌倉軍団は太平洋側を進軍する海道軍と中央の大手軍、北陸軍の三軍が編成され、7月末には早くも白河を越え、8月7日には藤田宿(国見町)に到達して陣を構える。
迎え撃つ平泉軍は藤原泰衡の庶兄、藤原国衡(西木戸国衡)を大将に奥羽の精兵2万騎を以て阿津賀志山防塁に配して迎撃態勢を整え、天下分け目の大決戦が開始されようとしていた・・・・・。

次回エントリーは阿津賀志山の戦いの予定です。