○阿津賀志山の戦い
文治5年(1189)2月、鎌倉の源頼朝は奥州平泉の藤原泰衡を征討するため、御家人に7月10日までに鎌倉に参集せよの命を発する。
鎌倉軍は28万数千騎というとてつもない大軍を海道軍、大手軍、そして北陸軍の三軍を編成し、7月19日に鎌倉を出陣、奥州への征途についた。
同月29日、白河の関を越え、いよいよ敵地奥州へと入ると、奥州勢の抵抗を受けないまま、8月7日伊達郡藤田宿(福島県伊達郡国見町)に着陣したといわれる。
一方の平泉の藤原泰衡は、鎌倉の動きを察知すると伊達郡、刈田郡の境にある阿津賀志山に堅固な城塞を築き、さらに阿津賀志山から阿武隈川岸に至る遠大な防塁を築いて防備強化に努め、異母兄である藤原国衡を総大将に金剛別当秀綱以下奥羽の精兵2万騎を配して迎撃態勢をとって待ち構えていた。
鎌倉軍28万4千騎・・・・軍士28万4千騎、但し諸人の郎従等加う・・・(吾妻鏡)とあるように兵員数についてはかなりの誇張はあるにせよ、山野を埋め尽くす大軍団であったことは想像できる。
平泉第3代当主、藤原秀衡は盛んに鎌倉に対しの情報戦で侮り難し奥州勢と思わせるような布石をいくつもインプットさせている実績があり、そのひとつ奥州軍17万騎、ひと筋縄ではいかない大軍団を要する奥州平泉の印象でもあろう・・・。
では実際の兵員数は・・・10分1程度だったという見解もあり、鎌倉軍2万5千~3万だったという・・・・?。
一方の平泉軍は17万騎という強大な軍事力を擁していたはずが、2万騎が決戦の地に集結という史実でもあり、おそらくこの数値が藤原泰衡が集めることができる最大数だったものかもしれません・・・?。
文治5年8月7日早朝、源平の戦いで名を轟かせた武勇の士、畠山重忠、小山朝光勢が金剛秀綱勢に攻撃を仕掛けた。
鎌倉勢の猛攻ながらも金剛秀綱は序盤戦をよく防ぐも、ついに戦い三日目、8月10日防塁を突破される、また小山朝光が率いる小勢が阿津賀志山背後の山道を迂回して平泉軍後衛の陣に攻撃を加える。
これに加えて鎌倉軍大手軍が防塁を越えて殺到すると平泉軍は大混乱に陥り、ここに平泉軍は壊滅、金剛別当秀綱は小山朝光に討ち取られ、子の下須房秀方(13歳)は、工藤行光の郎党に討ち取られたと伝えられている。
総大将の藤原国衡は退却途中、鎌倉御家人、和田義盛に呼び止められ、一騎討ちに応じてその場に留まったところを和田義盛の放った矢にて受傷、殺到する鎌倉勢から逃れようと深田に人馬もろとも足をとられ動けなくなったところを畠山重忠の家人に討たれと語られている。
今の宮城県仙台辺りの国分原に本陣を構えていた藤原泰衡は、阿津賀志山や各地の防衛拠点が次々と破られるの報で、平泉を目指して退却したといわれる。
平泉当主の意地といいますか、逃げ戻った兵と共に雌雄を決する戦いを今一度とはならず、僅か3日の戦いでほぼ天下分け目の決戦は終了・・・平泉の命運、歴史は皆様が御存知の通りということになります。
この場所で古の戦いが繰り広げられた、奥羽の歴史を変える戦いが・・・しかし、既に源平合戦を制した鎌倉方による全国制覇は時間の問題だったかもしれません。
勝敗は時の運ともよく言われますが、この阿津賀志山の戦い含み、太平100年の世であった奥羽の兵と源平の戦いをくぐりぬけてきた関東武士団とは、勝負にならなかったとも言われます。
この要因は無論大きなものでもありますが、藤原秀衡や源義経が健在だったらどうであったのだろう・・・・単なる物理的な部分のみならず時の運、これを制した源頼朝の勝利ともいえるのではないのか?
ところで遠野においては藤原時代といわれる伝承や史跡がほとんど伝えられていない。
鎌倉方により、また地頭として赴任した御家人達によって徹底的にその歴史や事績は葬られたのだろうか?
それにしても無さ過ぎという感覚もあり、遠野保といわれるように平泉の影響は受けていても別世界であった遠野であったものなのか?
遠野で平泉時代の痕跡を探訪するのも今後の課題ともなりそうです。