遠野の桜開花情報は当エントリー最下部に記しておりますので、お見逃しなく。
さて、紫波町の佐比内関連調べの過程において、ひょんなことから欠下茂左衛門に関する内容を発見、それでも概要のみですがご紹介いたします。
遠野・欠之上稲荷神社



欠之上稲荷神社は文禄年間に葛西氏旧臣の欠下茂左衛門が石巻の日和山にある稲荷社を勧請したと伝えられており、欠下氏は主家葛西氏が豊臣秀吉により所領没収となり没落した際に遠野に流浪し、遠野横田城主、阿曽沼広郷、広長父子に仕え遠野阿曽沼家臣となったといわれている。
欠之上稲荷のある山野は杉山館跡であり、館主が欠下茂左衛門とも伝えられ、稲荷社と館に深く関わっていた人物として考えてもよさそうでもある。
なお、かつてはこの稲荷社、山の中腹にあって勧進した欠下氏の名にちなんで欠下稲荷と呼んでいたようですが、後の享保年間に山上へ遷され、欠之上稲荷と呼ぶようになったとか?・・・・。

欠下氏(懸下)は、阿曽沼氏没落後も遠野にあって、さらに寛永4年(1627)八戸根城から遠野へ入部した八戸氏(遠野南部家)家臣として欠下氏の名が散見されますので、八戸氏家臣に採用されて遠野にあったものとばかり思ってましたが、よく資料等をみますと、寛永4年、11年と家臣達の俸禄、召し抱えとなった名簿に欠下氏の名は確認できず、その空白時期は?・・・・それとも姓名を変えて仕官したものか?少し気になってはおりました。
こういった内容調べは結構難儀し、どの書籍、資料から手をつけようか・・・?目星をつけていた書籍等が空振りに終わるとお先真っ暗という場面もあって大概は途中で止めてしまうことも多々ありました。
そんな中、紫波町佐比内関連にての調べで、まずは市外の歴史等を調べるその初期段階で各市町村の自治体史、すなわち市町村史を手始めに調べるのですが、これが案外便利な代物で広く浅く、時には深く・・・かなり重宝いたしますが、今回、たまたま見ていたページ前後に佐比内の金山関連が掲載されており、その中で懸下茂左衛門の名を発見、紫波町史に記載されておる内容ですが、ご紹介いたします。
〇懸下茂左衛門と女牛金山
紫波町舟久保にあった女牛金山の開発者は伝承によると懸下茂左衛門とされる。
葛西臣であった懸下茂左衛門は主家没落後、南部利直に出仕して300石を給され、遠野城代配下として遠野坂の下に住まいしていた。
寛永3年(1626)事故あって南部家より家禄没収となり郎従5人手回りの者を引き連れて遠野を後にし、紫波の舟久保村に来住、同村には茂左衛門の姉婿である南部藩士小山田新右衛門の知行所があった為にそこを頼ったものと考察されており、此処で女牛金山を開発、茂左衛門は承応3年(1654)現地で死去と伝えられている。
女牛金山は茂左衛門が来た頃は既に廃れていたといわれる。
女牛金山のある近在を農地として開墾した功績があり、このことで金山開発者と混同されたものとの見解も示されている。
茂左衛門は現地で死去したが、寛文3年(1663)茂左衛門の子息、宅右衛門が八戸弥六郎に召し出され、再び遠野へ戻り、以来八戸氏(遠野南部家)家臣となったと記されている。
おそらく文禄年間に遠野に至り阿曽沼家臣となり、阿曽沼氏没落後の慶長6年以降に南部利直に仕え、寛永3年、八戸直義の遠野入部前に何かしらの理由にて改易の憂き目となり遠野を離れたものと思われる。
そして紫波郡内で帰農していた時に、近隣の佐比内村を知行した八戸弥六郎にその噂が広がり、或いは自らアピールしたものか?いずれ子の時代に遠野へ帰還といった流れだったと想像できる。
欠之上稲荷神社から遠野市街地


さて、桜開花情報・・・・
既に早咲の桜で有名な大工町の善明寺では開花とのことですが、以前から小生の勘違いか思い込みか?いずれ遠野での桜開花標準木である新町の法務局の桜がほころんでましたので、自分的には遠野の桜の開花宣言だと思います。



ここ週末には市内の桜が続々と開花、来週には有名処を含めて揃い踏みといったことかもしれません。
見頃は今月末の週か?上手く持てば5月第一週までかな?・・・・。
次回は福泉寺桜情報をお伝えします・・・18日の予定
さて、紫波町の佐比内関連調べの過程において、ひょんなことから欠下茂左衛門に関する内容を発見、それでも概要のみですがご紹介いたします。
遠野・欠之上稲荷神社



欠之上稲荷神社は文禄年間に葛西氏旧臣の欠下茂左衛門が石巻の日和山にある稲荷社を勧請したと伝えられており、欠下氏は主家葛西氏が豊臣秀吉により所領没収となり没落した際に遠野に流浪し、遠野横田城主、阿曽沼広郷、広長父子に仕え遠野阿曽沼家臣となったといわれている。
欠之上稲荷のある山野は杉山館跡であり、館主が欠下茂左衛門とも伝えられ、稲荷社と館に深く関わっていた人物として考えてもよさそうでもある。
なお、かつてはこの稲荷社、山の中腹にあって勧進した欠下氏の名にちなんで欠下稲荷と呼んでいたようですが、後の享保年間に山上へ遷され、欠之上稲荷と呼ぶようになったとか?・・・・。

欠下氏(懸下)は、阿曽沼氏没落後も遠野にあって、さらに寛永4年(1627)八戸根城から遠野へ入部した八戸氏(遠野南部家)家臣として欠下氏の名が散見されますので、八戸氏家臣に採用されて遠野にあったものとばかり思ってましたが、よく資料等をみますと、寛永4年、11年と家臣達の俸禄、召し抱えとなった名簿に欠下氏の名は確認できず、その空白時期は?・・・・それとも姓名を変えて仕官したものか?少し気になってはおりました。
こういった内容調べは結構難儀し、どの書籍、資料から手をつけようか・・・?目星をつけていた書籍等が空振りに終わるとお先真っ暗という場面もあって大概は途中で止めてしまうことも多々ありました。
そんな中、紫波町佐比内関連にての調べで、まずは市外の歴史等を調べるその初期段階で各市町村の自治体史、すなわち市町村史を手始めに調べるのですが、これが案外便利な代物で広く浅く、時には深く・・・かなり重宝いたしますが、今回、たまたま見ていたページ前後に佐比内の金山関連が掲載されており、その中で懸下茂左衛門の名を発見、紫波町史に記載されておる内容ですが、ご紹介いたします。
〇懸下茂左衛門と女牛金山
紫波町舟久保にあった女牛金山の開発者は伝承によると懸下茂左衛門とされる。
葛西臣であった懸下茂左衛門は主家没落後、南部利直に出仕して300石を給され、遠野城代配下として遠野坂の下に住まいしていた。
寛永3年(1626)事故あって南部家より家禄没収となり郎従5人手回りの者を引き連れて遠野を後にし、紫波の舟久保村に来住、同村には茂左衛門の姉婿である南部藩士小山田新右衛門の知行所があった為にそこを頼ったものと考察されており、此処で女牛金山を開発、茂左衛門は承応3年(1654)現地で死去と伝えられている。
女牛金山は茂左衛門が来た頃は既に廃れていたといわれる。
女牛金山のある近在を農地として開墾した功績があり、このことで金山開発者と混同されたものとの見解も示されている。
茂左衛門は現地で死去したが、寛文3年(1663)茂左衛門の子息、宅右衛門が八戸弥六郎に召し出され、再び遠野へ戻り、以来八戸氏(遠野南部家)家臣となったと記されている。
おそらく文禄年間に遠野に至り阿曽沼家臣となり、阿曽沼氏没落後の慶長6年以降に南部利直に仕え、寛永3年、八戸直義の遠野入部前に何かしらの理由にて改易の憂き目となり遠野を離れたものと思われる。
そして紫波郡内で帰農していた時に、近隣の佐比内村を知行した八戸弥六郎にその噂が広がり、或いは自らアピールしたものか?いずれ子の時代に遠野へ帰還といった流れだったと想像できる。
欠之上稲荷神社から遠野市街地


さて、桜開花情報・・・・
既に早咲の桜で有名な大工町の善明寺では開花とのことですが、以前から小生の勘違いか思い込みか?いずれ遠野での桜開花標準木である新町の法務局の桜がほころんでましたので、自分的には遠野の桜の開花宣言だと思います。



ここ週末には市内の桜が続々と開花、来週には有名処を含めて揃い踏みといったことかもしれません。
見頃は今月末の週か?上手く持てば5月第一週までかな?・・・・。
次回は福泉寺桜情報をお伝えします・・・18日の予定