平山城や平城の類の館跡探訪をこの春シーズンの序盤を主に考えていたが、3年程前に探訪した上郷町内の板沢館、同町の刃金館の画像をHPにアップする際に全て縮小したまま保存してしまい、オリジナルな画像が皆無という事態に陥っていたために、急きょ、まずは割と山野に入りやすく、きつい山登りもそれほどでもないということで、上郷町平倉の刃金館の探訪をいたしました。
刃金館跡・・・遠野市上郷町平倉

今回で3度目の探訪、過去に訪ねた際は、整然と配列された帯郭、館中央を下る縦堀跡が印象的でしたが、杉林となっている館跡が多い中、ここ刃金館の主な部分は雑木林で明るいといったこと、かなり歩きやすい山野との記憶もあって、痛めている左肩をかばいつつも、比較的探訪しやすいと踏んでの今回の探訪、思惑通り左肩の違和感も薄く、以前に増して濃い探訪ができました。
東側の空堀跡・・・二重堀跡


頂部平場から主郭と推測される平場

主郭平場から頂部

主郭は高い部分から二段下がった場所と推測され、南北7メートル、東西15メートル程の平場が形成されている。
刃金館といえば、判然と残る帯郭が印象深いが、きれいに斜面が切岸、削平され、段差がはっきりと残されている。
最大7段の平場が整然と配列されている様は見事というほか言葉はみつからない。
帯郭群





縦堀跡

急斜な堀跡であるが、かつては大手口という位置付けで館の出入口だった可能性がある。
下部付近は土塁跡も見られ、虎口といった雰囲気もある。

○刃金館(はがねだて)
標高450メートル・比高56メートル 山城
築、使用年代 阿曽沼時代
館主 平倉新兵衛
遺構等 山頂・段丘・空堀

今回、館跡探訪は2時間程、画像収集の他にじっくり山野を踏破して現地で少し丁寧に簡略図を描いてみました。
○ 平倉新兵衛・・・本姓菊池
刃金館主を阿曽沼臣、平倉新兵衛と伝えられ、平倉村200石、慶長6年(1601)
遠野旧主、阿曽沼広長が遠野を追われ気仙郡世田米に亡命し、伊達政宗の支援により遠野奪還を挑んだ第2回目の戦い、赤羽根合戦にて遠野方の先鋒して気仙勢を迎撃するも乱戦の中で討死にと伝えられている。
当時、確実な内容ではないが、和賀氏、稗貫氏といった遠野周辺の諸氏の家臣達(舘主)の俸禄(知行高)をみると、ひとつの郷(邑)にひとりの武士(舘主)、平均200石という見解が示されている。(岩手武士団の編成、稗貫氏・大迫町史)
遠野でもほほ同様といった内容とも思われます。
騎馬の地士(舘主)1名に歩卒6名が動員基準とされるが、まさか赤羽根合戦に7名で出撃したとは思えず、知行地の平倉村やその周辺から兵を数10名徴兵しての出撃だったと推測されます。
また平倉新兵衛は平倉新兵衛盛任と「奥南落穂集・遠野家之次第」には記され、一族と思しき名に・・・・
平倉刑部(新助)、平倉新八、平倉長門守盛清、平倉平兵衛・・・とある。
なお、平倉長門守盛清に関しては、平倉地域に存在する平倉館の館主という伝えもあり、平倉新兵衛の時代に刃金館に主舘を移したものか?いずれ平倉長門守盛清と新兵衛盛任、「盛」という字にてかなりの近親者であると推測されます。
平倉氏は慶長5、6年の遠野騒動にて南部利直方となって気仙勢の遠野侵入を防ぐといった功労があったと思われるが、細越氏や平原氏、内城氏といった上郷地域の諸氏が南部利直から改めて知行地を安堵される中、平倉氏に安堵或いは賜るといった内容が残されていない。
また平倉氏と同族といわれる板沢氏もまた同様であるが、これまた同族である本姓菊池、平清水氏が南部家の大身となり、これに含まれたものなのか?このことは後に遠野の菊池姓調べでの課題として明らかになればと思っているところです。
ところで八戸氏(遠野南部家)が遠野へ入部した際に、平倉平蔵200石と遠野旧事記にあるが、板沢平蔵のことか?板沢氏と平倉氏はなんらかの深いつながり、血縁含みと考えているが、先人史家の中には平倉氏の後年については不明という見解が主でもありますが、「寛永11年遠野諸士俸禄」にある菊池新四郎40石は、「新」の字からして平倉新兵衛に極めて近い血縁者ではないのかと、或いは後継者ではないのかと思えてならない。
ということで、これ以上書き連ねますと、自分でも何を言いたいのか、まとまりもつかなくなりそうですので、後で遠野の菊池姓関連でさらに考察をして記したいと思ってます。
おまけ
東隣の平倉観音側から車で進入、館跡山野至近の水田で老夫婦が農作業中ではありましたが、そそくさと探訪準備をして山野に分け入りました。
オレンジ色の上着に黄色のヘルメット、ゴム長履き、さらに首からカメラとレーザー距離測定器をぶら下げ、おまけにファイルに製図板、なにやら山林調査やら測量にでも来たものか?それとも他人の山を勝手に調べる不審者と思ったに違いない・・・汗
山野滞在2時間、昼時も過ぎておりましたが、小生の下山を待っていたかのように姿を見ますと、「何しに来たか、何処から来たか」と矢継早に質問を受ける。
「駒木から来ました」とお答えすると、「松崎の駒木か」ということで、さらに市役所の林業担当か?ともいわれました・・・汗
館跡調べを趣味としていること、個人的にこの分野が大好きであるとお答えすると、かなり安心したようで、「今時のわげものにしては、ながなが良い趣味だ」と誉められました・・・笑
それから地域の歴史や言い伝え等、話の花が咲きましたが、最初に山野に入ることを伝えてから探訪すればよかったと反省しきりです。
なかなか下りて来ないので少し心配もかけたようでした・・・反省
刃金館跡・・・遠野市上郷町平倉

今回で3度目の探訪、過去に訪ねた際は、整然と配列された帯郭、館中央を下る縦堀跡が印象的でしたが、杉林となっている館跡が多い中、ここ刃金館の主な部分は雑木林で明るいといったこと、かなり歩きやすい山野との記憶もあって、痛めている左肩をかばいつつも、比較的探訪しやすいと踏んでの今回の探訪、思惑通り左肩の違和感も薄く、以前に増して濃い探訪ができました。
東側の空堀跡・・・二重堀跡


頂部平場から主郭と推測される平場

主郭平場から頂部

主郭は高い部分から二段下がった場所と推測され、南北7メートル、東西15メートル程の平場が形成されている。
刃金館といえば、判然と残る帯郭が印象深いが、きれいに斜面が切岸、削平され、段差がはっきりと残されている。
最大7段の平場が整然と配列されている様は見事というほか言葉はみつからない。
帯郭群





縦堀跡

急斜な堀跡であるが、かつては大手口という位置付けで館の出入口だった可能性がある。
下部付近は土塁跡も見られ、虎口といった雰囲気もある。

○刃金館(はがねだて)
標高450メートル・比高56メートル 山城
築、使用年代 阿曽沼時代
館主 平倉新兵衛
遺構等 山頂・段丘・空堀

今回、館跡探訪は2時間程、画像収集の他にじっくり山野を踏破して現地で少し丁寧に簡略図を描いてみました。
○ 平倉新兵衛・・・本姓菊池
刃金館主を阿曽沼臣、平倉新兵衛と伝えられ、平倉村200石、慶長6年(1601)
遠野旧主、阿曽沼広長が遠野を追われ気仙郡世田米に亡命し、伊達政宗の支援により遠野奪還を挑んだ第2回目の戦い、赤羽根合戦にて遠野方の先鋒して気仙勢を迎撃するも乱戦の中で討死にと伝えられている。
当時、確実な内容ではないが、和賀氏、稗貫氏といった遠野周辺の諸氏の家臣達(舘主)の俸禄(知行高)をみると、ひとつの郷(邑)にひとりの武士(舘主)、平均200石という見解が示されている。(岩手武士団の編成、稗貫氏・大迫町史)
遠野でもほほ同様といった内容とも思われます。
騎馬の地士(舘主)1名に歩卒6名が動員基準とされるが、まさか赤羽根合戦に7名で出撃したとは思えず、知行地の平倉村やその周辺から兵を数10名徴兵しての出撃だったと推測されます。
また平倉新兵衛は平倉新兵衛盛任と「奥南落穂集・遠野家之次第」には記され、一族と思しき名に・・・・
平倉刑部(新助)、平倉新八、平倉長門守盛清、平倉平兵衛・・・とある。
なお、平倉長門守盛清に関しては、平倉地域に存在する平倉館の館主という伝えもあり、平倉新兵衛の時代に刃金館に主舘を移したものか?いずれ平倉長門守盛清と新兵衛盛任、「盛」という字にてかなりの近親者であると推測されます。
平倉氏は慶長5、6年の遠野騒動にて南部利直方となって気仙勢の遠野侵入を防ぐといった功労があったと思われるが、細越氏や平原氏、内城氏といった上郷地域の諸氏が南部利直から改めて知行地を安堵される中、平倉氏に安堵或いは賜るといった内容が残されていない。
また平倉氏と同族といわれる板沢氏もまた同様であるが、これまた同族である本姓菊池、平清水氏が南部家の大身となり、これに含まれたものなのか?このことは後に遠野の菊池姓調べでの課題として明らかになればと思っているところです。
ところで八戸氏(遠野南部家)が遠野へ入部した際に、平倉平蔵200石と遠野旧事記にあるが、板沢平蔵のことか?板沢氏と平倉氏はなんらかの深いつながり、血縁含みと考えているが、先人史家の中には平倉氏の後年については不明という見解が主でもありますが、「寛永11年遠野諸士俸禄」にある菊池新四郎40石は、「新」の字からして平倉新兵衛に極めて近い血縁者ではないのかと、或いは後継者ではないのかと思えてならない。
ということで、これ以上書き連ねますと、自分でも何を言いたいのか、まとまりもつかなくなりそうですので、後で遠野の菊池姓関連でさらに考察をして記したいと思ってます。
おまけ
東隣の平倉観音側から車で進入、館跡山野至近の水田で老夫婦が農作業中ではありましたが、そそくさと探訪準備をして山野に分け入りました。
オレンジ色の上着に黄色のヘルメット、ゴム長履き、さらに首からカメラとレーザー距離測定器をぶら下げ、おまけにファイルに製図板、なにやら山林調査やら測量にでも来たものか?それとも他人の山を勝手に調べる不審者と思ったに違いない・・・汗
山野滞在2時間、昼時も過ぎておりましたが、小生の下山を待っていたかのように姿を見ますと、「何しに来たか、何処から来たか」と矢継早に質問を受ける。
「駒木から来ました」とお答えすると、「松崎の駒木か」ということで、さらに市役所の林業担当か?ともいわれました・・・汗
館跡調べを趣味としていること、個人的にこの分野が大好きであるとお答えすると、かなり安心したようで、「今時のわげものにしては、ながなが良い趣味だ」と誉められました・・・笑
それから地域の歴史や言い伝え等、話の花が咲きましたが、最初に山野に入ることを伝えてから探訪すればよかったと反省しきりです。
なかなか下りて来ないので少し心配もかけたようでした・・・反省