昨年の今時期、ソメイヨシノが3分咲きの紫波高水寺城跡を訪ね、簡略的ながら遠野と紫波の歴史について考察したことがありましたが、その際に北上川東岸側にある大巻城跡も訪ねようと思い、城跡の入口まで行ったのですが、いずれ近いうちにと探訪はせずに帰って来たことがあり、そのことを思い出したこともあって、この際にと思い、探訪して参りました。
大巻館(城)・別名 河村館 紫波郡紫波町大巻
標高168メートル、比高58メートル
山城・・・空堀、郭、土塁
館主 河村一族
愛車濁酒特区スッケ号ごと、説明板のある道奥へ進入、軽四輪クラスならなんとか通れそうな道をとにかく進む。
途中から登りもなくなり平坦な道が続き、おかしいと思いながらもとにかく進む。
途中に山上へ折れる分れがあり、その場に車を止めて徒歩で山上を目指す。
登りながら気が付いたのですが、「この道、車が通れる道だよな」ひょっとすると頂上近くまで車で行け着けるような?・・・予感は的中・・・汗・・・軽自動車やスッケ号クラスの小型車なら、なんとか行け付ける道でもありました。
本日も大汗かいてなんとか山上へ・・・・。
本丸(主郭跡)から紫波平野
主郭(頂部平場)
結構広めの平場が広がっており、周囲は3段程度の帯郭が残されている。
さらに南側には堀切を挟んで二の郭、三の郭と思しき平場が展開されている。
帯郭 西部分
東部分
北部分
空堀 南側部分
北部分から東、南側まで大きめの一重の空堀が残されている。
またその上下部には帯郭が配置され、西側は大きめの帯郭、さらにその下部にも空堀が残されており山野を断ち切っている。
遠野の鍋倉城をこじんまりとした雰囲気が漂うも、よく設計施工されただろうという印象が残る高感度な城跡でもありました。
館というより城クラス、かつては北上川東岸側の紫波郡内及び岩手郡内まで勢力下としていた河村氏の隆盛が想像できます。
手持ちの資料(書籍・日本城郭体系2)によると大正時代に公園として整備されていたと記されており、その折に若干手が加えられた形状も考えられる?そんな内容が記されていた。
城跡北側にある千手観音堂
扉を開ければ、あの金色に輝く中国の少女達がすばらしい舞をご披露というものではございません・・・笑
〇大巻城主 河村氏
河村氏の発祥の地は、相模国(神奈川県)足柄郡河村郷とある。
藤原秀郷の後裔で、相模の武士波多野遠義の子秀高から始まるとされる。
遠野阿曽沼氏も秀郷流であり、遠戚といえよう。
秀高は父から同国足柄郡上河村郷等の所領を譲られ、そこを本拠として河村氏を称したようでもある。
秀高の子義秀は源頼朝の挙兵に応じなかったため、所領の全てを失い没落したと伝えられているが、後に義秀の弟千鶴丸十三歳は、文治5年(1189)の奥州藤原氏の討伐に参陣を許されて、阿津賀志山の戦に功をたて、後に元服し河村四郎秀清と名乗ったといわれている。
奥州平泉征討の論功行賞で、秀清は岩手郡・斯波郡の北上川東岸一帯と茂庭(宮城県)の地、そして摩耶郡(福島県)の三ヶ所に所領を賜った。
秀清はこの三ヶ所の所領のどこに居を定めたかは、はっきりしないとされるが斯波郡では大巻に大巻城を築いたと伝えられている。
斯波郡への本格下向についても、はっきりとしていないが、鎌倉末期には秀清の末孫、秀興が下向して斯波郡内の本格統治が始まったとの考察されますが、河村氏庶流等の一族が下って郡内に土着したともいわれる。
河村氏の分流は北上川東岸一帯に広まり、大萱生・栃内・江柄・手代森・日戸・渋民・川口・沼宮内の諸氏の名がみられる。
南北朝の動乱時代となると、南朝方に組みし、八戸の南部氏と共に南朝方鎮守府将軍、北畠顕信に従っている。
しかし、北朝有利が強まる中、斯波郡高水寺城の斯波氏の勢力が伸長、どの時点で河村氏が斯波氏の勢力下となったかは不明ながら、斯波氏の圧力が徐々に強まり、その勢力下へ取り込まれていく過程があったと思われる。
戦国期、大巻城の河村氏は同郡の佐比内館に居館を移したと語られるも、大巻城が戦国期に廃された形跡は見当たらず、佐比内館含み斯波氏家臣、河村一族が居たものだろうと推測されます。
主家斯波氏が南部信直に攻められ滅亡した際は一族分裂し、帰農した一族、南部家、伊達家に仕えた一族とそれぞれ独自の道を歩んだものと思われます。
ということで、河村氏と遠野との関係等は多くは見出せませんが、大巻城から佐比内館へ一族が移ったとされる内容も語られますので、ついでに紫波町佐比内の佐比内館跡も探訪して参りましたので、次回にエントリーの予定です。
江戸期、紫波の佐比内は遠野領(八戸氏・遠野南部氏)でしたもので・・・。
今が盛ん・・・。
今時期、山野の至る所に咲いております。
おまけ
盛岡、北上でソメイヨシノ開花、大迫、紫波では梅が満開で、桜のつぼみもピンクが強くなっており、間もなく開花といった場面でもありました。
遠野市綾織町バイパス 国道283
まだまだピンクがかってませんが、この陽気ですと来週には開花か?福泉寺も同様です。
大巻館(城)・別名 河村館 紫波郡紫波町大巻
標高168メートル、比高58メートル
山城・・・空堀、郭、土塁
館主 河村一族
愛車濁酒特区スッケ号ごと、説明板のある道奥へ進入、軽四輪クラスならなんとか通れそうな道をとにかく進む。
途中から登りもなくなり平坦な道が続き、おかしいと思いながらもとにかく進む。
途中に山上へ折れる分れがあり、その場に車を止めて徒歩で山上を目指す。
登りながら気が付いたのですが、「この道、車が通れる道だよな」ひょっとすると頂上近くまで車で行け着けるような?・・・予感は的中・・・汗・・・軽自動車やスッケ号クラスの小型車なら、なんとか行け付ける道でもありました。
本日も大汗かいてなんとか山上へ・・・・。
本丸(主郭跡)から紫波平野
主郭(頂部平場)
結構広めの平場が広がっており、周囲は3段程度の帯郭が残されている。
さらに南側には堀切を挟んで二の郭、三の郭と思しき平場が展開されている。
帯郭 西部分
東部分
北部分
空堀 南側部分
北部分から東、南側まで大きめの一重の空堀が残されている。
またその上下部には帯郭が配置され、西側は大きめの帯郭、さらにその下部にも空堀が残されており山野を断ち切っている。
遠野の鍋倉城をこじんまりとした雰囲気が漂うも、よく設計施工されただろうという印象が残る高感度な城跡でもありました。
館というより城クラス、かつては北上川東岸側の紫波郡内及び岩手郡内まで勢力下としていた河村氏の隆盛が想像できます。
手持ちの資料(書籍・日本城郭体系2)によると大正時代に公園として整備されていたと記されており、その折に若干手が加えられた形状も考えられる?そんな内容が記されていた。
城跡北側にある千手観音堂
扉を開ければ、あの金色に輝く中国の少女達がすばらしい舞をご披露というものではございません・・・笑
〇大巻城主 河村氏
河村氏の発祥の地は、相模国(神奈川県)足柄郡河村郷とある。
藤原秀郷の後裔で、相模の武士波多野遠義の子秀高から始まるとされる。
遠野阿曽沼氏も秀郷流であり、遠戚といえよう。
秀高は父から同国足柄郡上河村郷等の所領を譲られ、そこを本拠として河村氏を称したようでもある。
秀高の子義秀は源頼朝の挙兵に応じなかったため、所領の全てを失い没落したと伝えられているが、後に義秀の弟千鶴丸十三歳は、文治5年(1189)の奥州藤原氏の討伐に参陣を許されて、阿津賀志山の戦に功をたて、後に元服し河村四郎秀清と名乗ったといわれている。
奥州平泉征討の論功行賞で、秀清は岩手郡・斯波郡の北上川東岸一帯と茂庭(宮城県)の地、そして摩耶郡(福島県)の三ヶ所に所領を賜った。
秀清はこの三ヶ所の所領のどこに居を定めたかは、はっきりしないとされるが斯波郡では大巻に大巻城を築いたと伝えられている。
斯波郡への本格下向についても、はっきりとしていないが、鎌倉末期には秀清の末孫、秀興が下向して斯波郡内の本格統治が始まったとの考察されますが、河村氏庶流等の一族が下って郡内に土着したともいわれる。
河村氏の分流は北上川東岸一帯に広まり、大萱生・栃内・江柄・手代森・日戸・渋民・川口・沼宮内の諸氏の名がみられる。
南北朝の動乱時代となると、南朝方に組みし、八戸の南部氏と共に南朝方鎮守府将軍、北畠顕信に従っている。
しかし、北朝有利が強まる中、斯波郡高水寺城の斯波氏の勢力が伸長、どの時点で河村氏が斯波氏の勢力下となったかは不明ながら、斯波氏の圧力が徐々に強まり、その勢力下へ取り込まれていく過程があったと思われる。
戦国期、大巻城の河村氏は同郡の佐比内館に居館を移したと語られるも、大巻城が戦国期に廃された形跡は見当たらず、佐比内館含み斯波氏家臣、河村一族が居たものだろうと推測されます。
主家斯波氏が南部信直に攻められ滅亡した際は一族分裂し、帰農した一族、南部家、伊達家に仕えた一族とそれぞれ独自の道を歩んだものと思われます。
ということで、河村氏と遠野との関係等は多くは見出せませんが、大巻城から佐比内館へ一族が移ったとされる内容も語られますので、ついでに紫波町佐比内の佐比内館跡も探訪して参りましたので、次回にエントリーの予定です。
江戸期、紫波の佐比内は遠野領(八戸氏・遠野南部氏)でしたもので・・・。
今が盛ん・・・。
今時期、山野の至る所に咲いております。
おまけ
盛岡、北上でソメイヨシノ開花、大迫、紫波では梅が満開で、桜のつぼみもピンクが強くなっており、間もなく開花といった場面でもありました。
遠野市綾織町バイパス 国道283
まだまだピンクがかってませんが、この陽気ですと来週には開花か?福泉寺も同様です。