「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

佐比内館(熊野神社) ・紫波

2009-04-15 16:06:52 | 歴史・民俗
 紫波町の大巻城跡探訪に伴い、資料によると大巻城に居た河村氏は同町の佐比内館に後に移ったと記され、大巻城と佐比内館はセットとして見るべきと判断し、大巻城跡探訪の道すがらでもある佐比内館跡をまずは訪ねてからということで、大巻城跡探訪の同日、まずは紫波町佐比内の佐比内館跡、現熊野神社の山野を探訪いたしました。


〇佐比内館  紫波郡紫波町佐比内字神田
 平山城  標高175メートル 比高45メートル
 遺構  空堀二重、土塁、郭
 館主  河村一族  天正年間 河村喜助


 舘南方の佐比内川に中沢川が合流する右岸の山上にあり、現在、熊野神社の境内となっている。
 熊野神社再建の際に、頂部部分がかなり削平された形跡があるも境内奥の一段高い平場の背面(北側)には大きめの二重空堀が残され、北側以外の方向は急な斜面となっているが、二段から四段の帯郭が配されている。

 佐比内川に沿う遠野街道を見下ろす絶好のロケーションであり、交通の要衝であったことが伺われます。


山上の平場・・・熊野神社



主郭部分



北側の空堀





帯郭 西側



東側


南東側



 遠野から紫波町日詰に至る県道沿い、右手にある熊野神社が館跡であるが、盛岡方面への用向きには、こちらの道を利用するといったことは少なくなっておりますが、以前は案外利用していたこともあって、佐比内の熊野神社と資料に記されておりましたので、直にピンときました。
 また至近のバス停も「舘前」?「舘の下」?とあり、それらしい雰囲気が漂っておりました。


 河村氏が南北朝が合一前後の時代に大巻城から佐比内館に居館を移したと伝えられ、当初は川向いに館があったとしている。
 
 佐比内館は、ある程度遺構が残され、結構見応えのある場面でもありましたが、道路脇の鳥居の下から徒歩で山上を目指しましたが、東側の農道からは直接車で乗り入れることができるようです。
 そんなことは知らないので、下からゆっくり登って参りましたが、5分もかからずに到着、熊野神社の社は思っていた以上に大きく立派でしたので、少しビックリしました。






〇熊野神社  佐比内村鎮守






 神社由来は説明板のとおりかと思いますが、補足しますと・・・

紫波佐比内 熊野社

 喜明院によって応永3年(1396)熊野権現社創建、代々の別当は喜明院。
 一説によると河村一族ともいわれ、明治2年、喜明院は川村氏を名乗っている。
 
 熊野権現→熊野大神→熊野神社(明治2年)


 また、江戸期の南部藩政時代、紫波の佐比内は八戸弥六郎(遠野南部家)の所領であったので、何かしら熊野神社との関わりがあるのではと少し調べますと・・・

 寛永12年(1635) 八戸弥六郎直義より社領3石の寄進を受けている。








 ついでに、むしろこちらの方がメインエントリーと成り得ますが、遠野南部領、志和佐比内(紫波佐比内)について・・・


 さて、遠野郷土史に興味ある方々においては、紫波町の佐比内がその昔、江戸時代に八戸家領、すなわち遠野領であったことはご存じのことと思います。


 寛永4年(1627)南部利直より八戸弥六郎直義に宛てた墨印状には・・・
 志和佐比内 677石825合・・・とあります。

 寛永4年以前、遠野南部家の知行所となる前は南部藩大迫代官区に属し、寛永4年に八戸弥六郎(遠野南部家)の所領となりますが、延宝3年(1675)11月、佐比内村の内、221石余(下佐比内)が盛岡直轄地に編入され大迫通となる。
 佐比内村は上佐比内が遠野領、下佐比内が盛岡領と二分された。

 このことは、遠野南部第4代(25代)八戸利戡時代の出来事で遠野領の鱒沢、小友と盛岡領の下宮守と紫波佐比内の所領交換が行われたことによるものと思われるが、少しつじつまが合わない気もする。
 佐比内は寛永4年から遠野領となっているので、後に所領変換の際に佐比内の一部がそのまま盛岡に組み入れられたものか?
 
 後に小友、鱒沢は返還されますが、下佐比内村に関しては文政10年(1827)遠野南部家分家の附馬牛八戸家、八戸上総の知行地となる。
 上、下と佐比内は分断された時代は継続しますが、いずれも遠野南部家縁の地ということで明治維新まで続きます。


 寛永4年、紫波佐比内村一円677石余、同郡彦部村46石余が遠野南部家領ともいわれますが、彦部村 彦部与五右衛門38石余、新屋敷新助8石余とある。
 
 寛永18年、佐比内村723石余(八戸弥六郎)、彦部村は資料にみえないとしている。
 彦部村は中野家(南部吉兵衛)の所領となっている。



・遠野南部家志和佐比内村代官
 遠野南部家による私設代官が遠野領内各地に設けられ家臣達が派遣されていた。

 岡 安助
 石橋新兵衛、水越左五右衛門(~宝永2年)・人首平右衛門、米内金兵衛(~宝永7年)・長嶺茂兵衛、岩間佐市右衛門(~享保元年)・十日市左源太、松田安兵衛(~宝暦6年)・金田一弥右衛門、中舘金左衛門(~明和9年)・金田一忠蔵、石橋治郎左衛門(~安永10年)・人首判右衛門、小沼仁右衛門、三上惣吉(~寛政7年)・小笠原金兵衛、野沢高水(~文化13年)・田沢倉寿、江田勘助(~文政3年)・金浜八十右衛門、小笠原秀八、菊地幸蔵、菊地覚左衛門(~文政8年)・両川覚兵衛、鈴木隼人、高橋武左衛門、駒木嘉左衛門(~天保7年)・小原定見、松田七九郎(~明治2年)


熊野神社から佐比内方面


 遠野から盛岡に出向く際は2日の行程といわれ、佐比内で一泊することになっていたようでもありますが、佐比内との関連含み、熊野神社に関わる内容に八戸弥六郎や八戸上総との関わりを示す古き棟札等、檀那として名がみえるか機会がありましたら確かめてみたいですね。




 ネネ



 14日から末娘が修学旅行で東京へ出かけておりますが、遊び相手がいなくなったのでネネも少し寂しそうでもあります。





コメント (2)
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