「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

注釈・遠野物語(飛行船)

2006-03-08 17:54:42 | 遠野
 作詞・作曲 あんべ光俊  唄、演奏 飛行船

 
 時刻表の地図を指でなぞっていくと 
  心のアルバムにしまってた懐かしい駅に着く
 最後の夏だから 思い出だけがほしかった 
  人を傷つけても それを思い出にした
 遠野の街に 白い日記を ボストンバックに詰めてきた僕に
  昔むかしの  お伽話で ページを埋めてくれた君(注1)
 明日は帰るという 月夜の晩の福泉寺(注2)
  好きだと口づけた ススキの野辺よ


 またいつか会えるかしらと そういって君は泣いた
  きっと迎えに来るよと そう言って僕は黙った
 駅までの道を   青いリンゴ(注3) をかじった 
   やけに酸っぱい味が今でも心にしみている
 遠野の街を自転車に乗り 涼んだ笛吹峠で
  この街が好きと言った君の目は 仔馬のように澄んでいた(注4)
 あの街に帰りたい あの頃をやり直したい
  今でも残っているだろうか 古い曲屋よ
 
 あの街に帰りたい・・・・・
             古い曲屋よ 


 月夜の晩の福泉寺ではございませんが、5月末の福泉寺


 3月の笛吹峠・・・青笹方面を望む

注釈

「注1」 お伽話でページを埋めてくれた君
 
 この女性(少女)は、「むがすあったずもな・・」・・祖父、祖母によりかなりの数の昔話を小さい頃より聞かされて育った環境にあったと思われます。
 今現在ではおそらく「語りべ」になっているものと思われます・・・笑

「注2」 月夜の晩の福泉寺
 
 一般観光客が月夜の晩の福泉寺を体験することは、特別なことがない限り不可能に近い・・・何故なら福泉寺は午後5時にて閉山され施錠されるからである。
 我家からの通用口か隣のお宅の脇道なら侵入は不可能ということはないが、晩の福泉寺に侵入するのはほぼ賽銭ドロボウしかいない。
 また第1駐車場(さわやかトイレ)及び山門(竜宮城みたいな建物)からの参道は誰でも入れるが、参道に至っては周囲が木々に囲まれ、月はほとんど見えない。
 「月夜の晩の福泉寺・・・」ご相談に応じますよ・・・笑

「注3」 青いリンゴ・・・
 
 青いリンゴ・・1970年代半ば、リンゴといえば「紅玉(まんこリンゴ)」がまだまだ主流であったが、青いリンゴで酸っぱい味・・・これは正式な品種はわかりませんが、子供の頃よく食べさせられ、我地域では「インド」と呼ばれていたリンゴだったと推測しております・・・汗

「注4」 自転車に乗り・・・笛吹峠
       ・・・君の目は 仔馬のように澄んでいた。

 自転車で笛吹峠、これは行って行けないことはないが、辛く厳しい登りであり、途中・・といいますか、登り始めて早期に自転車から降りて押し歩きとなる公算が強い。
 しかも下りは道が狭く急カーブの連続、絶対怖いはずである。というより事故発生率がぐ~んと高い。
 少女の仔馬のような澄んだ目は疲労感漂う場面であり、逆に目が血走っていた可能性が高い・・・いずれ自転車での笛吹峠は青笹町の大草里から少し行った辺りが無難であろう・・・。


 ということで、なんとも失礼は内容となりましたが、あんべ光俊さんファン及び遠野物語を愛する方々にはお詫び申し上げます。
 また歌詞の間違いもあるかもしれません、歌いながら歌詞を綴ったものですから当方の記憶違いがあるかもしれません。
 
 私のカラオケでの18番?が飛行船の「遠野物語」でありまして、お気に入りの曲です。

 飛行船「遠野物語」1976年 夏 発売
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早春の風

2006-03-07 13:58:55 | 遠野
 関東では春一番のたより・・・遠野も朝は冷え込んだものの、よく晴れ渡り春の訪れを感じさせる穏やかな日となった。

 
我家からみた物見山と遠野町方面
 日陰や山間は積雪もありますが、日あたりの良い場所はほとんど雪も融けております。

 
八幡座館と六角牛山(大柳橋から撮影)
 城館跡である八幡座、平地はほとんど雪はないが、まだまだ館跡の山には残雪がある。
 間もなく、私の中世山城館めぐりが始まります。

 
土淵町からみた早池峰山

 

 この陽気に誘われて、春先の農村では農作業に向けての下準備が開始されてもいる。
 田畑の土手等の枯草を集めて焼却・・・今月末になれば土手焼き等も本格的に行われるが、無届の火入れ、さらにゴミ焼却は規制されております。くれぐれも関係機関への届出を怠らないようにお願いしますし、風の強い日は火災の危険もありますので、お気をつけください。

 
 「雪の下、たまな」・・たまださんではありません・・・笑・・(たまな)とはキャベツのこと。

 北海道とか豪雪地帯で越冬キャベツというものがございますが、私も真似て畑にこの冬の分として10個ほど残して雪の下にしておりました・・・汗・・・実は単なる秋の穫り残しでして、雪融けと共に現れただけです・・・汗・・・でも2月頃に3個ほど発見し、2個は既に消費済です。
 結構美味かったですよ・・・。
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馬っこ

2006-03-05 21:00:35 | その他
 我家の飼猫、ネネも15ヶ月、成猫の部類と思われますが、身体は大きくてもまだまだじゃれあいたい様で、末娘と時折戯れております。
 
 さて、「馬っこ」・・・
 嫁さんの実家の祖母は、お土産用の「馬っこ」を作り、遠野の観光施設「伝承園」に画像の馬っこを納めている。
 
 

 以前は伝承園内の工房で他のお年寄りの皆さんと、お土産用の民芸品等を通いで作っていたが、今は足腰も弱くなり、自宅で馬っこ作りに勤しんでいる。

 私は手先があまり器用ではないが、こうした特技なり技術には頭が下がる思いでもあります。
 視力も低下、足腰も思うようにまかせない中、それでも綺麗な仕上げで馬っこをつくる、たいしたものだと感心しきりでもあります。

 遠野にお出かけの際、伝承園で「馬っこ」をご覧の際は是非に遠野路の思い出にひとついかがでしょうか・・・笑

コメント (6)
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遠野保

2006-03-04 12:52:36 | 歴史・民俗


 北奥羽城館関連サイト「北天の城」及び拙ウエブサイト「奥州虎猫舘・掲示板」でも若干触れられていた「遠野保」について、同級生であり遠野民俗学、歴史関連に精通されております笛吹童子様から、興味深い資料をいただき、今回はこの資料を基に及ばずながら遠野という呼び名、遠野保について考えてみたいと思います。

 さて、上記画像は建武元年に陸奥国司北畠顕家から南部又二郎師行(一応に遠野南部氏の先祖)に宛てた国宣であるが、ここにはっきりと「遠野保」と記されていること、またこの国宣が日本史上「遠野」という文字が見られる最古の公式文書であり、当時既に遠野保と呼ばれていた地が私の住む岩手県遠野市であろうと思います。

 それは南部師行は北畠顕家配下として糠部郡(青森~岩手県北)を含む北奥羽地方の検断職(行政、検察、軍事を司る地方長官)として派遣されている点、南部師行の受け持ち範囲は糠部郡内は無論のこと、閉伊郡や津軽地方も含まれていたことから遠野保もその受け持ち範囲であり国宣の内容の阿曽沼朝兼からの訴えに対する対応からもあきらかであろうと思います。

 また阿曽沼という文字もみえること、さらに小山文書といわれる「藤原秀親譲状」(観応元年8月20日)の中に「下野国阿曽郡内 阿曽沼郷地頭職事」「陸奥国遠野保地頭職事」・・・とあるように、ここでも「遠野保」が記され、阿曽沼氏が遠野統治に関わっていた事実が伺われる内容でもある。

 よって少なくても建武年間以前から遠野地方は「遠野保」と呼ばれていたことがうかがい知ることができますが、しからば「保」とは何か、遠野は12郷と呼ばれていたように「郷」ではないのか、或いは閉伊といわれるように「閉伊郡」つまり「郡」の内ではないのか・・・といったことで少し論議もされたようでもあります。

 今回いだたいた資料は、伊藤英造氏が著した「遠野保について」を引用及び参考としておりますが、原文もあるということなそうですから、後日あらためて拝読させていただくことになります。

 遠野は「保」であった。国宣には保と記され、郷でも荘でも村でもない、ましてや閉伊郡とも記されていない。
 「保」とは何なのか・・・その謂れやら性格、成立の過程を述べるならあまりにも難しく長くなりますので割愛いたしますが、要するに公領、すなわち朝廷や寺社、国衛の用に充てるため朝廷に承認され設定された特別な土地といったことらしい・・・。(荘園制の変形したもの)

 荘園は貴族社会の財政基盤であったが、荘園制度も平安期が最盛期であり、鎌倉期にこれらの成立をみることはないので、遠野保は平安期には成立をみたことになり得ます。つまり遠野保と呼ばれていたのは平安時代から・・・ということになりますが、平安時代といっても北奥羽では安倍時代やら藤原時代も含む長い時代でもありますから、遠野保の成立を限られた時期として特定するには難しいものかもしれません。

 東北においての「保」は数は多くないがいくつか確認されているようです。主に宮城県が多いとのことであるが、遠野は保の中でも北辺に位置し多賀国府から一番遠い保との見解でもある。
 遠野は平安時代、安倍氏や平泉の藤原氏の影響力が強く内在していたとはいえ、保という公領であったこと、また後の時代でも海岸と内陸を結ぶ要衝という位置付けはこの頃もあって、閉伊郡やら北の糠部郡の駿馬及び昆布や鷹羽、海豹皮等の北方の特産品と南奥からの米やら綿、農器等の交易を司る鎮守府公認或いは公営のひとつの拠点だったのではないのか・・・・と考えてしまいます。

 私の住む駒木の小田沢坂上遺跡、平安期に流通したとされるまとまった貨幣等が発掘もされている現実もあり、何かしらこれらを統制する力ある一族或いは人物が居たとしてもおかしくない歴史を感じるものでもあります。

 余談にはなりますが、私の住む駒木地区・・「駒木」とは小牧とか駒上げ野とされる馬にちなんだ名と伝えられておりますが、上記に記したように北奥羽からの馬の集積地のひとつとしての遠野保だったらどうだろう・・・その場所が現在の松崎町駒木だったとしたら・・・これらのことから牧が設けられ、馬関連が発達した・・そして地名に反映された・・・興味ある内容でもある。

 さて、遠野保のこと、多賀国府からは一番遠い保・・すなわち「遠い保」が転じて遠野保となった・・・これもなんともいえませんが、少し考えられる説ではないでしょうか、他に遠野の語源について、アイヌ語からの湖水に由来する「トオヌップ」、歴史的伝承での「遠閉伊」(とおのへい)・・・これは蝦夷時代における中央からの最後の征討を受けた地、閉伊郡の内にあったとされる場所・・・さらに一戸~九戸というように拾戸(とおのへ)による考え方もあります。

 しかし、「遠野保」・・「遠ノ保」または「遠い保」が遠野保成立当時に付けられた呼び名である点、中央からの公文書での国宣に遠野保とあるように地元から遠野という名が発信されたのではなく中央による呼び名が反映されたのではないのか・・・と思えて仕方ない・・・。

 最後はお茶を濁す内容で退散いたしますが、これらを自分なりにまとめる、これも遠野郷土史を学ぶ上では必要とも思われ、また阿曽沼氏やら遠野南部氏を調べるにあたっても以前の遠野の様子・・・これも窺い知ることも必要でもあり、今回の遠野保はまさにその原点ともいえる考察題材でもあります。
 より一層励み明らかにできるよう努力いたします。
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卒業式

2006-03-03 17:09:06 | その他
 俗にいう「ほでなす」で「てあます」の長女がなんとか高等学校を卒業、よく考えればこの親にしてこの子供・・・それでもなんとか諸先生方のご尽力もあって高校3年間を終了することができた。
 ありがとうございました。

 学区外の高校に進学した娘は朝一番の列車で通学、ちゃらんぽらんといいながらもよく早起きして続けられたものだと感心はしている。
 
 宮澤賢治に縁ある学校、娘の学年、すなわち卒業生が最後の入学であり、途中校舎移転と校名変更・・・式の冒頭に映し出された3年間を綴ったスライドには涙が溢れ出た、特に旧学校に関わる最後の卒業生でもあった娘達の一年生での姿・・これには流石に感慨深いものが込み上げてもきた。


卒業式は某市のホールにて挙行されました。



 さらに涙と感動を助長したのは・・・

 



 中学時代の恩師の先生と母校(中学)からのメッセージ・・・
 やんごとなき事情で中学を転向しているが、遠野からたったひとり某市にある高校に進学、こうして娘の為にメッセージをいただく、なんとありがたいことか・・そして本人にも親にもこのうえのない励みとなりました。
 ありがとうございます。

 

 卒業式は別れといいますが、新たなる出発でもある、友との語らい、思い出を胸に新たなる人生にチャレンジしてもらいたい、人生はこれからが本番である。
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