「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

宮沢小話

2007-11-15 17:53:13 | 遠野
 久しぶりに嫁さんの実家に立ち寄った。
 
 此処は「えんで」のうちである「みやじゃ」というところです。



 えんで(飯豊)を望む・・・笑


 宮沢・・・・近年、地域の方々によって河川整備が進められ、季節の花で彩るというプロジェクトが進行中とのこと、きれいに整備されております。

 この沢(川)の北側(左)が宮沢、画像右が飯豊・・・。




 下水道の浄化施設・・・市内でも早い時期に水洗化等、下水道の整備が進められた地域でもあります。


 そして、飯豊といえば、知る人ぞ知る、屋敷神の宝庫・・・・目抜き道路を通っただけでもその多さが伺われます。


 嫁さんの実家のお稲荷さん


 まずはこちらをご覧ください


 後醍醐天皇様とよばれる社(祠)の存在、当地の宮澤姓の家でお祀りしているものですが、別家分の社となっております。

 しかし、本日よくよく話を聞いてみますと・・・・

 今から数年前、本家のお婆さんが明方に毎日、揺すり起こされたとのこと。
 これが1週間も続き、流石に寝不足で「マヤめぐ」毎日で野良仕事どころではなかったとのこと。
 起こされる明方、また今日も起こされるのかと思うと構えてしまって、自ら目が覚めるもの、そろそろ起きようかと思案しているときに、肩を何者かに叩かれ、「我は天王(天皇)なり」と確かに聞いたとか・・・・。

 早速、その家の息子さん(故人)に、後醍醐天皇様の社を見て来るように言いつけると、社は倒壊寸前で一部壊れていたとか。

 これは大事とばかりに直ぐに新しい祠を設えて、さらに立派な鳥居も建てると、婆さんの症状は無くなったとのこと。

 この話、つい最近に別家に話されたとのことで、別家では新しい社を建替えた経緯を聞いて恐縮しているところなそうです。


 宮沢・・・私はかつて宮中に関連する高貴な方が来て住んだことから近くの沢は宮沢となった説を「ばほめがすて」ますが・・・・笑・・・・まっ、浪漫がある内容でよろしいのではないでしょうか・・・笑

 飯豊、宮沢をめぐるロードを「えんで雅ロード」とか逆ルートを「ロマン宮沢吉野ロード」なんてつけるのも粋ではないでしょうか・・・なんちゃって・・爆



 メインストリート

 正面の山は宮沢館跡、そして熊野神社、後醍醐天皇社が鎮座している。



 
 午前9時、覆われていた霧も大方晴れ渡り、義母を誘って盛岡方面に買物に出かける。




 おまけ


 フライングで皆さん本日15日解禁のボジョレーヌーボーを既にいただいたという皆さんもおりますが、私は正規に本日いただきました。
 まだ途中ですが・・・・汗・・・・種類が結構あってワイン通ではないので、何がいいのかわからず、数が一番多いヤツを一本買ってきて飲んでおります。
 
 
 美味い・・・??かな・・・?


 


 発売1週間、益々好調・・・・



 よっ、スーさんの息子!

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熟練

2007-11-14 19:24:04 | その他
 今朝は、ペッコばかりピリッと冷え込みましたが、それほどでもなく、日中は青空も広がり気温も上昇、気持ちよい天気でもありました。

 朝、雲の切れ間から早池峰がのぞいてましたが、白い冠雪が確認でき、冬将軍の斥候部隊がいよいよ遠野にもやって来た、そんな印象でもあります。




 落葉の季節ではありますが、まだ紅葉が楽しめるところも若干あります。
 画像は伝承園・・・土淵町


 
 ということで、昨年は既に初雪があり、11月15日に冬タイヤに交換しておりますが、1月に新品のタイヤを購入して本格的な冬に備えるも、暖冬・・・それでも昨年の交換時期に習って、まだまだ雪が降りそうにない雰囲気ながらも、早期装着ということで、ぶれんど仲間の某氏が経営されている某タイヤ店にお邪魔して、タイヤ交換をお願いいたしました。




 小型乗用車の愛車「濁酒特区スッケ号」会長さんも加わって、ものの5分も掛からず脱着の早業・・・・本来は家で一人でも出来るのですが、専門家にお願いした方が安心ですしね。


 スッケ号のタイヤ交換が終ると同時にパンク修理の大型トラックがやって来た。
 どうやら後輪のダブルタイヤの内側らしい・・・早速取り外しが行われ、素早く離脱・・・・手際よい作業に見惚れました・・・笑





 こちらはタイヤの脱着、パンク修理と15分位ですかね、まさに熟練技といいますか、機具を駆使しながらも大きく重いタイヤを一人で外す、装着するコツといいますかツボがあるのだろう、感心しながら最後まで見学させていただきました。

 
 世の中には様々な職業がありますが、その分野で卓越した技能等を有する方々がいること、あらためまして思ったところです。
 今回は、知人である某氏でしたが、カラオケでの上手さと同じく、仕事でも熟練された技術を拝見し、すばらしいと思いましたし、全国展開されている大型店舗にはない親しみやすさ、気軽さを感じたところでもあります。
 こうした町工場的な雰囲気、これも現代社会には必要ではないのでしょうかね。

 ○飯○さん、ありがとうございました。



 おまけ

 タイヤ交換が成れば一応に自分なりの冬仕度が整ったとの位置付け、本日は例のビールをチビチビとやりながら鍋をつつき、静かに飲んでおります。
(普段は晩酌はしません・・)
 15日はボジョレヌーボー解禁ということで、明晩も晩酌予定です・・・笑

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秋仕舞と冬仕度

2007-11-12 19:48:47 | 遠野
 秋仕舞い・・・・

 稲作農家だった我家、この時期、親父は農機具類の手入れ、母親や祖母は畑の作物の大方の収穫と枯木、枯草の除去を行い、家の周囲をサッパリと清掃して、一応に一年の農作業の区切りとしておりました。
 無論、農家の業態によって、それぞれ秋仕舞の時期は違いはありますが、大方、今時期だったと記憶しております。

 夜は、家族でそれなりのご馳走をいただき、無事に農作業を終えた喜びを分かち合った・・・はずです。(ご馳走はカレーライスか鶏汁だったような)






 農家でなくなった我家、農機具のほとんどは保有しておらず、よって一番使用頻度が高かった草刈機械の燃料を抜き、エンジンを回した後に軽く乾拭きして小屋に終い込んだ。
 
 それと庭を軽く清掃して、自分流の我家の秋仕舞といたしました。




○冬支度・・・わしぇ垣(わしぇがき・ましぇがき)

 自分の冬支度としては、車のタイヤ交換を行えば一応に冬支度が成ったという位置付けですが、昔の我家の冬仕度といえば「わしぇ垣」を結っていたこと。

 冬期間、天ヶ森、矢崎山から吹き降ろす北西の寒風、そして吹雪、何も遮るものがない場所にある我家、ましてや隙間だらけで今考えればかなり冷え込んだ我家、わしぇ垣を結って寒さを凌いでいたといっても過言ではない。

 当時の集落内を思い起こしてみると我家の他に数軒わしぇ垣をからくっていたという記憶はあるが、そう多くは見た記憶はない。

 しかし、未だに市内の何処かのお宅で、わしぇ垣を結っている家があるのではないのか、少し時期が早いような気がしたが、秋仕舞を終えた午後に綾織、宮守、附馬牛を回ってきたが、発見に至らず・・・・。

 唯一、附馬牛町内の某所でそれなりの雰囲気のお宅を発見・・・・。



 少しこじんまりとしているが、こんな感じだった。

 
※萱や葦を大きなすだれ状にしたものと藁を組み合わせて、杭、ハセをからくって、垣根といいますか塀状にしたものを「わしぇ垣」と言っていた。


 イメージ



 こんな感じ・・・・笑


 いずれ私が高校生の頃まで、わしぇ垣を結っていたが、窓類がアルミサッシとなって、気持ち的に格段と家の中が暖かくなったと感じた・・・笑・・・今考えると気のせいと思われる・・・汗


 わしぇ垣結いは、秋仕舞と前後して行われたような、落ちたゴンドを弟と二人で拾い集めを命じられた記憶があるので、秋仕舞の前日か・・・?


 今ではみられなくなった光景と今更ながら懐かしく思い起こしております。





 おまけ

 先日、遠野郷八幡宮で宮古の黒森神楽が演じられましたが、遠野ぶれんどの何人かも観賞されたということで、各ブログにその模様がエントリーされておりますが、その中で、黒森神楽の師匠の供養碑が福泉寺にあるという内容があって、私自身、初耳であり気になっていたので、早速聴取して参りました。


 どうやら塔婆のようです。
 佐○姓の方で、福泉寺の信徒さんとのこと。
 黒森神楽と福泉寺の接点はないようですが、現住職も先代住職共に下閉伊郡(川井村小国)のご出身で、宮古地方にも親類等もいて、こういった関係から信徒となられたものと推測しております。




 この塔婆の中のどれかということですが、文字が消えかかっていて確認できず・・・・。

 亡き親父は駒木神楽の太夫でありましたし、神楽保存会最後の会長でもありました、また昭和30年代まで海岸地方の巡業にも出かけていたともいわれ、接触はなかったと思いますが、福泉寺を中心に何か関係はあったような気がいたします。

 
 
 
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晩秋07

2007-11-11 19:57:05 | その他
 雨降りの一日、こんな日は、更新が滞っている本サイトと別家サイトの更新でもと思い、少しホームページビルダーをいじくる。

 しかし、どうもイマイチ乗らない、そこで昨年の今頃は何をしていたのか、拙ブログの読み直し、ブログというものは面白いもので、日記型ホームページとはよく言ったものだと感心しております。

 昨年は11月12日に初雪、数日後には初積雪があってタイヤ交換に慌てていたような、しかしながら、若干の積雪はあっても正月以降3月8日まで、まともな積雪は皆無に近く、まさに暖冬、これで随分と館跡探訪がはかどったものでした。


 今月初めの画像



 晩秋もそろそろ終わり、いつ初雪となってもおかしくない。


 昨年11月の拙ブログを日を追っていくと、「遠野ぶれんどの集い」の記事が毎日のように記載されている。

 そう、遠野ぶれんどの旗揚げというべき記念すべき集まりを催したのが11月25日、早いものであれから1年が経とうとしている。
 幸、ブログ仲間の輪は広がりをみせ、また以前からの仲間との絆も強まり、今年9月には初の企画「遠野ブログ画像展」の開催にこぎつけたこと、ぶれんどの原点というべき最初の行事が1年前の11月だったことをあらためまして思いだしているところです。


 鍋倉城址  三の丸から




 それと昨年は11月17日から晩秋・初冬の部の館跡探訪を開始している。
 土淵町の山城跡(角城館と本宿館)を皮切りとしているが、今年は地元松崎町から攻めて、図面等を録っていなかった上郷、青笹の館跡の再訪、そして気になる未踏の館を若干ということで、10箇所程予定としております。
 天気がよければ、今週から始めようと考えておりますが、昨年よりは若干季節の移り変わりが遅いような感じでもあり、熊がまだいそうな雰囲気、十分気をつけて探訪したいと考えております。




 おまけ


 5年ぶりに海釣りに興じましたが、仕舞っていた釣り道具一式を出す際に、これまた封印していたスキー道具を発見、懐かしさもあって画像に撮りました。

 スキーは平成13年以来ですから6、7年やっておりませんね。

 それとカービングスキーが流行って、私がスキーを楽しんでいた時代からは考えもつかない変化を遂げているとか、画像のスキー板は、当時高額な部類で今では、「おだって」買える代物ではございません。

 195センチの小賀坂ユニティSVと200センチの西沢デモンストレーター

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勤皇五世

2007-11-09 20:50:06 | 歴史・民俗
 年に2度程、鍋倉城址二の丸にある遠野南部家歴代墓所を訪れている。
 定期的に時期を決めているわけでもないが、春と秋といった感じながら、以前からホームページにて遠野南部氏について扱っておりまして、妄想やら私見が入り混じり、心ばかりのお詫びとご報告といった意味合いで手を合わせておりました。

 でっ、ここ最近、ぶれんどの皆さんが市民センター付近をエントリーしており、それにつられて思い出したかのように、甚だ失礼な発端ですが、本日お参り方々、画像を数枚撮らせて頂きました。



 遠野南部家歴代当主並びにそのご家族の墓所
 
 大工町の大慈寺にあったものを昭和48年に移された。




 二の丸御門跡付近の紅葉・・・・色あせしておりますが、既に落葉盛んです。



 南部神社






 
 遠野南部歴代8世を祭神としている




 「勤皇五世」

 4代師行公~8代政光公が勤皇五世となっております。

 
 武家政権の時代、すなわち徳川治世が崩壊し、明治維新が成って明治の世が訪れると明治新政府は、南北朝時代の南朝の正統性を認める立場をとり、北朝は足利尊氏等、足利方の傀儡とみる立場との見解があったようです。

 このため、南朝に忠誠を尽くしたかつての武家等や先祖を持つ家々に爵位を贈る、尊王、勤皇がもてはやされた時代でもありました。

 遠野南部家歴代5代は、建武親政の時から南北朝合一が成る元中9年(1392明徳3)まで、一貫して南朝方として北奥羽の地で南軍の孤塁を守り通し、またこれらを物語、綸旨やら教書といった古文書を数多く持っていたことによって(遠野南部家文書)明らかであります。

 勤皇五世歴代に関しては詳しくは記述はいたしませんが、必ずしも所伝でいう内容と記録等の解読による考察とでは違いも顕著で、むしろ私は史料による見解を重視する考え方でもあります。

 このことは更新が停滞気味ですが別家サイトの「遠野南部氏物語」にて若干記述しておりますし、今後も引き続き研究調査をしていくつもりでもあります。


 あまり、此処で遠野南部家の歴史を「ばほめがすて」も、難しいとか理解するに時間が要するともいわれそうですし、答えに窮する質問があっても大変ですからね・・・・汗








 余談ですが、此処鍋倉城に江戸時代、遠野南部歴代当主やそのご家族が住んでいたと思う方々も多いと思いますが、実は歴代当主(城主)は盛岡の遠野屋敷に居て、無論奥方や子等ご家族は盛岡に居りました。

 遠野へはお国入りと称して、結婚された時とか何か特別な行事があった時に限られ、一生の内に1、2度位しか領国たる遠野に来ていないという当主がほとんどであったそうです。
 亡くなられた後に遠野へ葬られる、子供達の中には一度も遠野を見ずに亡くなられる方々も多かったものと思います。

 隠居後に遠野で過された歴代も若干確認されますが、鍋倉城は家老加判の新田氏を中心に重臣達が守っていたことになります。





 皆さんにつられて・・・・



 視点は銀杏ではありません・・・鍋倉城の守り、堀の役目の来内川・・・・笑




 おまけ1

 釜石通いが続いてますが、何か忘れている、釜石といえば・・・・?・・・どこか気にかかっていたが、ようやく思い出した。



 
 甲子柿

 これこれ・・・「どふっ」とした食感がたまりましぇん。
 マヤマヤずのも一気に吹き飛んだっ・・・笑



 おまけ2


 数が増えて橋の端から次ぎの橋まで・・・・




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さんらいず

2007-11-07 17:27:34 | その他
 アーア 午前5時 時間は二人を朝にして・・・・




 見上げたら モーニングムーン・・・・





 朝焼けの光の中に立つ影は ○○○マン・・・笑





 昇るサンライズ 見上げてごらんよ ひとり素直に戻って
  いつだって 俺はここにいる だから朝陽と出逢い・・・・・





 てなわけで、懲りもせずにラストといいながら、今日も早朝から釜石港へ出かけて来た。

 釣果は聞かないでください・・・汗

 でも、太平洋から昇る朝陽の美しさ、マヤマヤとした小生の頭、そして腹黒さをいっぺんに消し去るが如し・・・・海からの日の出は感動ものでした。



 35センチの良型のサバ・・・後輩が釣り上げたもの


 夜明けと共にルアーロッドを振ると第1投目からヒット、なかなかの引きを味わいながら足下に寄せると、タモの到着を待たずに無理に引き抜くと、バラしてしまった。
 逃がした魚は大きいといいますが、話半分ながらもかなりの大物であった・・汗

 回りでも連続ヒット、第2投目の小生にもまたまたヒット・・・今度はライントラブル・・・・リールからラインがゴソッと一気に出てしまう・・・・。
 泣く泣くラインを手繰り寄せ、なんとか一尾はゲットするもライン20メートルほどをカット、こんがらがったラインと格闘すること10分・・・その後、復活するもルアーに反応は全くなし・・・涙


 餌師やサビキ釣りには、コンスタントにヒット、今回はルアーセットのみの持参であったので、ただルアーを投げ込むだけ・・・・お目当てのイナダも直ぐ横の爺さんがサビキで釣っていた。
 しかも、さらに横のオヤジさんも・・・・・涙



 横の爺さんのクーラーボックスを拝見・・・丸々としたイナダ(ブリの幼魚)45センチが眩しい・・・・サバも10尾近く、サバの生き腐れといわれるように痛みやすいので、頭、内臓、尾を取って保冷している。

 しかし毎日、サバ釣りをしているそうですが、釣ったサバを毎日食べているのだろうか?近所にお裾分けも毎日では・・・・・悔し紛れの当方の戯言です・・・笑


 結局、ルアーマンにヒットしたのは、午前6時前後の30分のみ、全体で4尾のみ・・・・サバやイナダは回遊魚、間もなく湾内から姿を消して外洋に・・・・来年10月までお預けとなります。

 もうサバ狙いでの釣行はほとんど不可能に近く、今回がラストとなりそうです。

 まっ、5年ぶりに釣りを復活、釣果は芳しくなかったけど、結構楽しかった。
 来年からは本格的に復活を心に誓っております・・・・笑




 午前7時頃・・・・ほぼ快晴の釜石。


 午前9時、釣終了、10時近くに釜石港を後にする・・・・。

 今回は仙人道ではなく旧道を・・・・。

 

 大橋








 そしてサン・セット・・・・我家から



 太平洋からのサンライズ、日本海でのサンセット、一日でこれら観ること、楽々可能な時代となり、いつか挑戦したいと思っている。

 釜石から昇った太陽が男鹿の夕日となる、まさにお天道様追っかけツアー・・・・。



 もういっちょ、おまけ







おまけ

 間に合った・・・プハッ~



 遠野産ホップ使用「とりたてホップ一番搾」
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文官・近世宇夫方氏

2007-11-06 21:21:13 | 遠野
 遠野市内の宇夫方姓をみると、約10数軒確認できるが、その多くは遠野市綾織町にみられる。
 近年、阿曾沼時代を扱った資料のひとつ「宇夫方家譜」を所蔵していたのは、土淵町内の宇夫方氏であるのが注目されますが、土淵町の宇夫方氏が嫡流、宗家とも推測されますが、私自身研究調査に携わっておりませんので、仔細は今のところ不明としておきます。


 中世宇夫方氏の主館・谷地館跡(2007年3月の画像)

 
 館としての痕跡は探し出すことは叶わないが、その昔、宇夫方一族の館があった謂れを示す石碑と神社が当時を偲ばせている。




 さて、宇夫方氏は鎌倉時代、遠野郷を源頼朝から賜った際に、主家に代わって代官として遠野へ下向したと伝えられている。
 以来、200年にわたり遠野代官職の家として栄え、主に下郷方面(綾織・小友)の盟主として君臨していたと伝えられる。

 主家や分家鱒沢氏が台頭する時代、戦国初期辺りからその力も陰りがみえはじめ、弘治3年(1557)綾織新里に築いた西風館を主城としていた宇夫方広本の時代に葛西勢といわれる賊徒の夜襲を受けて、当主広本、嫡男広将、次子亦次郎が討死となり西風館は落城、これ以来宇夫方氏の動向が遠野史から消え去るという内容でもあります。





 ということで、遠野南部家に仕えた近世の宇夫方氏主な歴代について、記述いたします。


○ 宇夫方広久(広敏)・・・別名・西風館大学

 広久は広本の三男と伝えられている。
 弘治年間の西風館陥落の際、三歳の幼児だった広久は母親に抱かれ、難を脱して、母方の実家、達曽部氏により庇護されていたと語られる。

 所伝では、成人して間もなく、谷地館主となっていた上野広吉(主家阿曾沼広郷の弟)に寄宿していたといわれ、後に遠野阿曾沼氏最後の当主、阿曾沼広長が鱒沢氏、上野氏、平清水氏の謀反となった遠野の政変では、人質となっていた広長夫人、子等を機転をもって夫人の実家、世田米へ逃したと伝えられますが、後の世、子孫である宇夫方広隆による著「阿曾沼興廃記」等により、阿曾沼氏に忠誠的な先祖広久を印象付けるものとして、没落した阿曾沼氏贔屓、敵対した鱒沢氏等を悪者とした印象が後々の時代まで続いたというほかならないものと思っております。

 広久は気仙勢を率いて遠野奪還戦を挑んだ赤羽根峠の戦いで、遠野方で板沢館主(上郷町)の板沢平蔵と一騎打ちを演じ、板沢に瀕死の重傷を負わせる(後日死亡と語られる)
 
 自身も三度目となる奪還戦、小友樺坂峠の戦いで深傷を負い、安俵(花巻市東和町)に養生と共に隠遁していたが、後に遠野へ帰参して谷地館に住まいしていたといわれる。

 寛永13年(1636)没、光明寺に葬られている。


○ 宇夫方広道(清左衛門)

 広久の嫡子、寛永4年、太守南部利直により遠野へ移封となった八戸直義に仕え、綾織村の内を知行、下郷の代官となった。
 
 新田の開発に心血を注ぎ、綾織に苦労の末、角鼻堰を造り80町歩の新田を開墾、現在の綾織町の美田の基は清左衛門によることが大きい。


○ 宇夫方広続(長右衛門)

 父、広道の知行及び役を引き継ぎ、医術の心得もあったと語られる。

 猿ヶ石川に架かる愛宕橋は川中央に橋脚を用いた板橋であったというが、洪水の度に流出、さらに船渡等も行うも、交通等に支障があった。

 広続は無柱の橋の建設を決意、百方考察の末に架橋工事に入り、苦難の末に寛文6年(1666)吊り橋を完成させた。
 貞享4年(1687)81歳で天寿を全うした。


○ 宇夫方広隆
 はじめ政春と称し、後に広隆と改名。
 遠野盛岡屋敷勤番として仕え、若い頃から好学で和漢に通じ、他に武技、兵法、砲術、弓馬、刀槍を修め、彼が著した書は多く、広隆の父、政周(まさかね)と共に文才の名で今でも知られる人物である。

 「阿曾沼興廃記」2巻・「八戸家伝記」25巻・「遠野古事記」7巻・「遠野旧事記」1巻・・・他

 八戸家伝記は父、政周の著であるが、親子による合作ともいわれ、往古の文書を探り、古老達からの聴取、寝食を忘れて編纂に励んだ父に協力したともいわれる。

 明和5年(1768)80歳で没・・・光明寺に葬る。


○ 宇夫方広明(文吾)

 遠野士族、幼少の頃から書を好み、久子翠峰に師事、江戸にて遊学後、盛岡にて江幡梧楼に学ぶも、明治維新を迎える。
 
 江刺県の神社係として出仕、後に神道教導職となる。

 「阿曾沼家乗」・「南部信直伝」・「百将論」・・・他

 明治33年(1900)69歳で没・・・大慈寺に墓碑があるとか・・・。



 江戸時代、遠野南部家臣として命脈を伝える宇夫方氏、その歴代は文才により、多くの史書を後世に残しております。

 いずれこれらが中世期の阿曾沼氏や遠野南部氏の事柄に通じる所伝の基となっております。
 
 所伝や後に通説となったことはともかく、大方の流れをつくり資料として第一に用いられることでもあり、これらの資料を意識しなければならない。
 
 信憑性やら史実との狭間もあろうが、これらを苦労して書き残した宇夫方氏に敬意を表したい、これが素直な気持ちでもあります。
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不思議な光景

2007-11-04 15:31:28 | 遠野
 祝・遠野高サッカー部・・・・全国高校サッカー岩手県大会決勝で盛岡商(全国覇者)を破って21度目の優勝



伊達藩からの通い人来遠、遠野の紅葉もいよいよ終盤、晩秋といった雰囲気ですが、天気も上々・・・市内各地を飛び回ってラストを飾る紅葉をゲットされたものと思います。



 上郷町足ヶ瀬



 青笹町中沢


 昨夜の宴の余韻を残しつつも、以前yamaneko氏が発見、numako氏も探訪、さらに笛爺氏の考察なんかも入るも、結局は完全なる正解には至っていなかったと記憶しておりますが・・・・一如女史がさらに探訪し、その画像を昨夜の宴で見せられたのが運のつき、当方も是非にまがってみたいの衝動は一夜明けても脳裏から離れることはなかった・・・・汗

 昼近く、早速小生も探訪して参りました。


 問題の建造物





 レンガ状のコンクリート造、一間四方の建物が2基・・・背後は山の斜面に石垣が組まれ前面は土塁状に石垣となっている。


 こちらをまずは・・・・

 こちらもどうぞ・・・


 皆様の見解やら考察では、近年までこの界隈で石灰石の採掘がされていたとか、その際に使用する発破、すなわち火薬類を貯蔵する火薬庫だったのでは・・・これで落ち着いたと記憶しております。

 その後、夏の時期に大橋の釜石鉱山で長年仕事をされている方々と一献する機会があって、色々とお聞きしましたが、発破をかけてまで大掛かりな採掘が遠野側で行われていたとは聞いたことがないとのこと、さらに仙人トンネル(旧トンネル)の工事の際は、釜石鉱山も一役買って大橋側から掘削を開始して遠野側に掘り抜いたとのことで、遠野側で火薬類を用いる工事はなかったはずと指摘しておりました。


 上から・・・




 実は火薬類の貯蔵取扱等は権限委譲で我職種の範囲になっておりますが、おそらく昔も今もその根本は同じで外壁はコンクリートブロックとか耐火煉瓦使用でさらに外側もさらに壁等を設け、油類の危険物と同じように爆発の場合は上方へエネルギーが抜けるように、屋根はスレートとかを使用といったことかと思います。

 この建造物の場合、火薬庫としての条件は一応整えられていると思います。
 外側の石組や土塁、さらに屋根がないということは、吹き飛びやすい何かで葺いていたものか?扉は鉄扉か何かで廃止した際に外したものかもしれません。


 ちなみに・・・・



 前面の枯れ草に隠れるようにあったトタン

 トタンが屋根材だったのかは不明・・・・いずれにしましても何時、何の為に・・・もう少し踏み込んで調べれば自ずと答えはでそうな予感はいたしますね。

 でも作りは決して古いというものではなさそうです。

 車を運転しながらの帰路、軽便鉄道での石炭の一時保管場所かな?・・・なんていう考えも浮かびましたが、これも確証を得ずですね・・・。

 それにしてもこれを発見したyamaneko氏の鋭い臭覚、続石である・・・。










 おまけ・・・・


 急遽召集された「ノモー是ぶれんど」・・・一次会は5名、二次会は6名


 限定販売の地元産ホップ使用のビール・・・・売り切れ状態で、どこを探しても見つからなかったが、ここで殲滅することができました・・・笑






 6本を残滅、二次会は例の場所へ・・・・ぶれんど1名合流





 他のお客さんがお帰りになる辺りを見計らって親父爆裂モードへ突入・・・。










 何故だろう~・・・深夜0時過ぎから俄然元気が出てきた親父ぶれんど達、カラオケはいつもの如くながら、あろうことか、女性ぶれんどを拉致して密着ダンスの数々・・・まさに親父化計画実行・・・「ある会だ」の会合の集大成が・・・・・



 ところで・・・・・がっ・・びょん~



 誰だっ、誰だ、だれだあ~・・・・・・

 どさくさに紛れて・・・・大汗・・・・

 カメラは見ていた・・・・汗





 し・し・し・・・し~らないっ・・・笑・・・マジなようです。
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気晴らし

2007-11-03 18:21:02 | その他
 学校のクラブ活動やら文化祭で学校行事が重なって週末がほとんど潰れていた末娘が久しぶりに家に居るということで、急遽、買物がてらに盛岡に行ってきた。




 昼はラーメンが良いと言い張る親父に対して、イタリアンと譲らない娘、分ったような言い草ながらも、ここは親父が折れてスパゲッティに・・・。


 ついでに・・・・



 若い振りしてシェイクをいただく、しかも560円と随分と高い・・・汗
 容器も高そうだっ・・・しかも果肉入り、それなりに経費も掛かっているのだろうと少し納得して飲んでみると、かなり美味った。


 娘の洋服類若干を買った様だが、私は何を買ったかといえば、煙草ひとつだけ・・・涙
 

 傾く陽の光を浴びて桜並木の紅葉が眩しい・・・。


 紅悪妻号から・・・・大汗


 遠野バイバス付近のスーパーにて・・・



 帰宅後、東北の湘南からお嬢さまが急遽遠野入りしたとの報、彼女のブログで紅葉もラストチャンスとか、天気も上々とお誘いのコメが・・・・笑

 おやびんからのお誘いでぶれんどを急遽召集してノモー是ぶれんど開催、これから出撃いたします。
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再挑戦

2007-11-02 20:13:28 | その他
 仕事上の単純ミスを引金に上司に多大な迷惑をかけてしまい、少し反省と意気消沈しておりました。
 こんな時は仕切り直しといいますか、早く忘れて来週から気持ちも新たに・・・そんな思いの中、今月から数年ぶりに再開した海釣りの一応のラストと考え、またもや釜石港に出かけて参りました。


 今回の狙いは、40センチオーバーの大サバとイナダ(三陸ではソッコ・ブリの幼魚)




 ブリ大根の準備もOK牧場・・・・・(先月末の画像)
 実は、沢庵(漬物)用の大根


 前夜、ちょっとした事故があって緊急呼び出し、帰宅したのが夜の11時頃、翌朝早くに釣りに行くかもしれないと後輩数人に伝えていたが、この分では早く行くことは望めない、それでも先に行っているかもしれないと一応伝えてはおいた。

 仕事でのミスやらも気になってなかなか寝付けない、寝たなと思っても時計をみれば30分置き位に目が覚める。
 結局、午前4時、そそくさと起き出して準備万端、自宅を出発。
 午前5時に釜石湾新浜町の防波堤に到着・・・・辺りはまだ真っ暗、それでも数人が竿を振っている姿があった。


 ところが、ななんと、後輩の一人が既に現地入りして、釣りをしているではないか、ビックリしたというか、凄い行動力、早速、ルアー専門で狙うことにして支度を整えて防波堤へ・・・・。

 まだまだ辺りは暗い、白みはじめた辺りに、結構車が入ってくるが、皆サバ狙いのようだっ・・・その中に見慣れた若者達3人・・・早い・・後輩達もやって来た。
 朝早く来る様なタイプではないが、遊びとなれば別かもしれない・・・笑


 午前5時半、早速第1投、5時半位から7時過ぎまでがゴールデンタイムとか、そんな中、餌師の竿や投げサビキにサバが掛かり始める。
 これはチャンスと皆思ったに違いないが、後輩の一人の竿がしなり、まず一尾ヒット、もうひとりにもヒット、この二人は立て続けに連続ヒットとなるも我には当たりすら無し・・・涙


 後輩がゲットした30センチ後半の良型サバ



 結局、この二人はコンスタントにヒットさせ、各々4尾ずつゲット(無論バラシも数尾有)

 沸き立つ防波堤東突端付近、しかし我竿がしなることはほとんどなかった。
 ルアー竿は10フィートのソルトルアー用、ルアーは皆より一回り大きい28gのメタルジグ、何度ルアーを変えようと思ったことか、しかし、遠投が効き、皆より一回り大きい魚がかかるに違いないと信じての午前6時半過ぎ、小さな鳥山とナブラが出現、好機到来とばかりに遠投すると海鳥の羽根にラインが当たり、かわそうと竿を左右に振ったら鳥に針がかり、結局鳥を釣ってしまい、泣く泣くリールを巻き上げる、鳥は宙を舞いながら我手元へ、まるで凧揚げしているような感覚・・・。

 幸、親切な釣人二人の協力で、鳥から針を外して、鳥も怪我はしていたが元気に大空に還り、一安心・・・・。
 
 午前7時、遂に待望の当たりが・・・しかも大当たり、何か石か何か重いものが竿に乗っかった感じ、巻き上げるリールも重い、竿のしなりからも大物との予感・・・・近づくにつれ心地良い引きが腕に伝わる。
 後輩のタモ入れで取り込み成功・・・牛乳パック並みの胴回りの大サバであった。




 40センチ超・・・計測では45センチ、画像では41センチかな?メジャーが若干ずれているので43センチといったところかな・・・笑

 してやったり、朝揚がった中では一番の大物・・・笑・・・その後、25センチクラスを一尾ヒットさせて、当たりは遠のいた。


 イナダも湾内に入っているようで、投げサビキに数尾掛かっていたが、今回もイナダを釣ることはできなかった。


 午前10時、場所移動となり各々独自の釣りスタイルで楽しんでいたが、お昼過ぎに携帯が入る・・・例のミスでの内容、思い出したくはないが、ミスはミス、脳裏から離れることはなかった。

 その後も再度携帯が・・・・呑気に釣り等している場合ではなさそうだっ、ということで私一人後片付けをして帰宅。
 いつでも出かけられる体制で自宅待機、思えば数日前のエントリーで水戸黄門の主題歌の内容を取り上げたが、まさにこれに近いことが直ぐに訪れようとは・・・・涙・・・・。

 釣りに関してはリベンジはある程度できたと思うも、脳裏に重く立ちこめる問題は当分晴れそうにもない、水戸黄門の主題歌のように、まずは前向きに歩けるように、そうならなければと思う週末である。
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