「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

大巻館(城) ・紫波

2009-04-13 18:00:09 | 歴史・民俗
 昨年の今時期、ソメイヨシノが3分咲きの紫波高水寺城跡を訪ね、簡略的ながら遠野と紫波の歴史について考察したことがありましたが、その際に北上川東岸側にある大巻城跡も訪ねようと思い、城跡の入口まで行ったのですが、いずれ近いうちにと探訪はせずに帰って来たことがあり、そのことを思い出したこともあって、この際にと思い、探訪して参りました。


大巻館(城)・別名 河村館    紫波郡紫波町大巻
 標高168メートル、比高58メートル 
 山城・・・空堀、郭、土塁
 館主 河村一族




 愛車濁酒特区スッケ号ごと、説明板のある道奥へ進入、軽四輪クラスならなんとか通れそうな道をとにかく進む。
 途中から登りもなくなり平坦な道が続き、おかしいと思いながらもとにかく進む。

 途中に山上へ折れる分れがあり、その場に車を止めて徒歩で山上を目指す。
 登りながら気が付いたのですが、「この道、車が通れる道だよな」ひょっとすると頂上近くまで車で行け着けるような?・・・予感は的中・・・汗・・・軽自動車やスッケ号クラスの小型車なら、なんとか行け付ける道でもありました。

 
 本日も大汗かいてなんとか山上へ・・・・。


本丸(主郭跡)から紫波平野



主郭(頂部平場)


 結構広めの平場が広がっており、周囲は3段程度の帯郭が残されている。
 
 さらに南側には堀切を挟んで二の郭、三の郭と思しき平場が展開されている。


帯郭 西部分



東部分




北部分



空堀  南側部分






 北部分から東、南側まで大きめの一重の空堀が残されている。
 またその上下部には帯郭が配置され、西側は大きめの帯郭、さらにその下部にも空堀が残されており山野を断ち切っている。

 遠野の鍋倉城をこじんまりとした雰囲気が漂うも、よく設計施工されただろうという印象が残る高感度な城跡でもありました。
 館というより城クラス、かつては北上川東岸側の紫波郡内及び岩手郡内まで勢力下としていた河村氏の隆盛が想像できます。




 手持ちの資料(書籍・日本城郭体系2)によると大正時代に公園として整備されていたと記されており、その折に若干手が加えられた形状も考えられる?そんな内容が記されていた。
 

城跡北側にある千手観音堂


 扉を開ければ、あの金色に輝く中国の少女達がすばらしい舞をご披露というものではございません・・・笑




〇大巻城主 河村氏
 河村氏の発祥の地は、相模国(神奈川県)足柄郡河村郷とある。
 藤原秀郷の後裔で、相模の武士波多野遠義の子秀高から始まるとされる。
 遠野阿曽沼氏も秀郷流であり、遠戚といえよう。
 秀高は父から同国足柄郡上河村郷等の所領を譲られ、そこを本拠として河村氏を称したようでもある。
 
 秀高の子義秀は源頼朝の挙兵に応じなかったため、所領の全てを失い没落したと伝えられているが、後に義秀の弟千鶴丸十三歳は、文治5年(1189)の奥州藤原氏の討伐に参陣を許されて、阿津賀志山の戦に功をたて、後に元服し河村四郎秀清と名乗ったといわれている。

 奥州平泉征討の論功行賞で、秀清は岩手郡・斯波郡の北上川東岸一帯と茂庭(宮城県)の地、そして摩耶郡(福島県)の三ヶ所に所領を賜った。
 秀清はこの三ヶ所の所領のどこに居を定めたかは、はっきりしないとされるが斯波郡では大巻に大巻城を築いたと伝えられている。

 斯波郡への本格下向についても、はっきりとしていないが、鎌倉末期には秀清の末孫、秀興が下向して斯波郡内の本格統治が始まったとの考察されますが、河村氏庶流等の一族が下って郡内に土着したともいわれる。
 河村氏の分流は北上川東岸一帯に広まり、大萱生・栃内・江柄・手代森・日戸・渋民・川口・沼宮内の諸氏の名がみられる。

 南北朝の動乱時代となると、南朝方に組みし、八戸の南部氏と共に南朝方鎮守府将軍、北畠顕信に従っている。
 しかし、北朝有利が強まる中、斯波郡高水寺城の斯波氏の勢力が伸長、どの時点で河村氏が斯波氏の勢力下となったかは不明ながら、斯波氏の圧力が徐々に強まり、その勢力下へ取り込まれていく過程があったと思われる。

 戦国期、大巻城の河村氏は同郡の佐比内館に居館を移したと語られるも、大巻城が戦国期に廃された形跡は見当たらず、佐比内館含み斯波氏家臣、河村一族が居たものだろうと推測されます。

 主家斯波氏が南部信直に攻められ滅亡した際は一族分裂し、帰農した一族、南部家、伊達家に仕えた一族とそれぞれ独自の道を歩んだものと思われます。


 ということで、河村氏と遠野との関係等は多くは見出せませんが、大巻城から佐比内館へ一族が移ったとされる内容も語られますので、ついでに紫波町佐比内の佐比内館跡も探訪して参りましたので、次回にエントリーの予定です。
 江戸期、紫波の佐比内は遠野領(八戸氏・遠野南部氏)でしたもので・・・。



 今が盛ん・・・。



 今時期、山野の至る所に咲いております。
 



 おまけ


 盛岡、北上でソメイヨシノ開花、大迫、紫波では梅が満開で、桜のつぼみもピンクが強くなっており、間もなく開花といった場面でもありました。


 遠野市綾織町バイパス 国道283



 まだまだピンクがかってませんが、この陽気ですと来週には開花か?福泉寺も同様です。

 

 








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春の滝・「又一の滝」

2009-04-12 16:51:46 | 遠野


 遠野の複数ブログで取り上げられている滝特集・・・笑・・・北の滝から始まり、南の滝、西の滝、さらに東の滝も・・・今時期は、雪解け水を集めて水量が多く見応えがあるだろうな・・・と密かに探訪を考えていたが、自宅から一番近い滝は、妻ノ神奥の倶梨伽羅不動の滝(大沢不動の滝)ということになりますが、あまりにもマイナー過ぎか?ここは大きさ、見応えは遠野随一と称えられる「又一の滝」しかあるまい・・・ということで、自身では7年ぶりの訪問となりますが、先駆けてブログエントリーの「開く・築く」の影響もあったことを申し添えます・・・笑





 こういった分野は得意ではなく、むしろ嫌がる嫁様ですが、山野徘徊でいい汗をかいてダイエットにつなげようの説得が功を奏したようで、今回同行いただきました。
 
 
 狭い渓谷沿いの道を徒歩で約30分、若干のアップダウンやら残雪路、丸太橋の川越えもありますが、以前よりはだいぶ整備といいますか歩きやすくなっておりました。
 それでも額からは汗がしたたり落ちるほど、行程もそうだけど気温が高かったせいもありますがね。







又一の滝


 薬師岳中腹の又一の滝は、高さ20メートル幅約5メートルの滝で、その上には巨大な一枚岩の平らな川床が長く続いているといいます。
 
 遠野の中心部から遠く離れ、遠野市民であっても、まだ一度も見たことがない、行ったことがないという方々がかなりいるのではと想像されます。
 嫁様も今回が初めてとのこと・・・ひょっとして市職員でも半数以上は未踏かもしれませんが地元というのは、こんなものかもしれませんね。



拡大画像は別家ブログ「遠野発信・MAYAKUSYAず!」をご覧ください。
こちら






















 雪解け水で水量も豊富で見応え十分、でも画像からすると端の方に水が流れてないので、少し少なめか?兎にも角にも此処まで到達するには、少しだけ辛い山道の行程もありますが、夏は気持ちよさそうだし、秋の紅葉もすばらしいのではと嫁様の声・・・次は紅葉の頃に来てみようということで又一の滝を後にいたしました。


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刃金館と平倉氏

2009-04-10 18:54:19 | 歴史・民俗
 平山城や平城の類の館跡探訪をこの春シーズンの序盤を主に考えていたが、3年程前に探訪した上郷町内の板沢館、同町の刃金館の画像をHPにアップする際に全て縮小したまま保存してしまい、オリジナルな画像が皆無という事態に陥っていたために、急きょ、まずは割と山野に入りやすく、きつい山登りもそれほどでもないということで、上郷町平倉の刃金館の探訪をいたしました。


刃金館跡・・・遠野市上郷町平倉



 今回で3度目の探訪、過去に訪ねた際は、整然と配列された帯郭、館中央を下る縦堀跡が印象的でしたが、杉林となっている館跡が多い中、ここ刃金館の主な部分は雑木林で明るいといったこと、かなり歩きやすい山野との記憶もあって、痛めている左肩をかばいつつも、比較的探訪しやすいと踏んでの今回の探訪、思惑通り左肩の違和感も薄く、以前に増して濃い探訪ができました。


東側の空堀跡・・・二重堀跡






頂部平場から主郭と推測される平場



主郭平場から頂部


 主郭は高い部分から二段下がった場所と推測され、南北7メートル、東西15メートル程の平場が形成されている。



 刃金館といえば、判然と残る帯郭が印象深いが、きれいに斜面が切岸、削平され、段差がはっきりと残されている。
 最大7段の平場が整然と配列されている様は見事というほか言葉はみつからない。


帯郭群












縦堀跡


 急斜な堀跡であるが、かつては大手口という位置付けで館の出入口だった可能性がある。
 下部付近は土塁跡も見られ、虎口といった雰囲気もある。




○刃金館(はがねだて)

 標高450メートル・比高56メートル  山城
 築、使用年代 阿曽沼時代
 館主  平倉新兵衛
 遺構等 山頂・段丘・空堀




 今回、館跡探訪は2時間程、画像収集の他にじっくり山野を踏破して現地で少し丁寧に簡略図を描いてみました。



○ 平倉新兵衛・・・本姓菊池

 刃金館主を阿曽沼臣、平倉新兵衛と伝えられ、平倉村200石、慶長6年(1601)
遠野旧主、阿曽沼広長が遠野を追われ気仙郡世田米に亡命し、伊達政宗の支援により遠野奪還を挑んだ第2回目の戦い、赤羽根合戦にて遠野方の先鋒して気仙勢を迎撃するも乱戦の中で討死にと伝えられている。

 当時、確実な内容ではないが、和賀氏、稗貫氏といった遠野周辺の諸氏の家臣達(舘主)の俸禄(知行高)をみると、ひとつの郷(邑)にひとりの武士(舘主)、平均200石という見解が示されている。(岩手武士団の編成、稗貫氏・大迫町史)
 遠野でもほほ同様といった内容とも思われます。

 騎馬の地士(舘主)1名に歩卒6名が動員基準とされるが、まさか赤羽根合戦に7名で出撃したとは思えず、知行地の平倉村やその周辺から兵を数10名徴兵しての出撃だったと推測されます。


 また平倉新兵衛は平倉新兵衛盛任と「奥南落穂集・遠野家之次第」には記され、一族と思しき名に・・・・
 平倉刑部(新助)、平倉新八、平倉長門守盛清、平倉平兵衛・・・とある。

 なお、平倉長門守盛清に関しては、平倉地域に存在する平倉館の館主という伝えもあり、平倉新兵衛の時代に刃金館に主舘を移したものか?いずれ平倉長門守盛清と新兵衛盛任、「盛」という字にてかなりの近親者であると推測されます。


 平倉氏は慶長5、6年の遠野騒動にて南部利直方となって気仙勢の遠野侵入を防ぐといった功労があったと思われるが、細越氏や平原氏、内城氏といった上郷地域の諸氏が南部利直から改めて知行地を安堵される中、平倉氏に安堵或いは賜るといった内容が残されていない。

 また平倉氏と同族といわれる板沢氏もまた同様であるが、これまた同族である本姓菊池、平清水氏が南部家の大身となり、これに含まれたものなのか?このことは後に遠野の菊池姓調べでの課題として明らかになればと思っているところです。


 ところで八戸氏(遠野南部家)が遠野へ入部した際に、平倉平蔵200石と遠野旧事記にあるが、板沢平蔵のことか?板沢氏と平倉氏はなんらかの深いつながり、血縁含みと考えているが、先人史家の中には平倉氏の後年については不明という見解が主でもありますが、「寛永11年遠野諸士俸禄」にある菊池新四郎40石は、「新」の字からして平倉新兵衛に極めて近い血縁者ではないのかと、或いは後継者ではないのかと思えてならない。


 ということで、これ以上書き連ねますと、自分でも何を言いたいのか、まとまりもつかなくなりそうですので、後で遠野の菊池姓関連でさらに考察をして記したいと思ってます。





 おまけ

 東隣の平倉観音側から車で進入、館跡山野至近の水田で老夫婦が農作業中ではありましたが、そそくさと探訪準備をして山野に分け入りました。
 オレンジ色の上着に黄色のヘルメット、ゴム長履き、さらに首からカメラとレーザー距離測定器をぶら下げ、おまけにファイルに製図板、なにやら山林調査やら測量にでも来たものか?それとも他人の山を勝手に調べる不審者と思ったに違いない・・・汗

 山野滞在2時間、昼時も過ぎておりましたが、小生の下山を待っていたかのように姿を見ますと、「何しに来たか、何処から来たか」と矢継早に質問を受ける。

 「駒木から来ました」とお答えすると、「松崎の駒木か」ということで、さらに市役所の林業担当か?ともいわれました・・・汗
 館跡調べを趣味としていること、個人的にこの分野が大好きであるとお答えすると、かなり安心したようで、「今時のわげものにしては、ながなが良い趣味だ」と誉められました・・・笑

 それから地域の歴史や言い伝え等、話の花が咲きましたが、最初に山野に入ることを伝えてから探訪すればよかったと反省しきりです。
 なかなか下りて来ないので少し心配もかけたようでした・・・反省

 
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早池峰ビューと荒屋館

2009-04-08 18:38:02 | 遠野
 このところ良い天気が続いてますが、小生の休みと晴天が重なったということで、この時期恒例の城館跡探訪を本格的に開始いたしました。
 ただ、左肩痛が残るため、山野の登り下りが必須の山城跡探訪は、しばし見合わせることにして、まずは数は少ないのですが、平城や平山城系を訪ねて様子見ということにしております。


早池峰山





 早池峰山や薬師岳の麓的な附馬牛町ですが、皆さんご存知のように早池峰山が真っ向からはっきり見える場所が少ない地域ですが、おそらく町内一のビューポイントといっても過言はないと思います。



 ということで、場所はこちらの上部・・・・



 荒屋館跡・・・附馬牛町荒屋







 空堀跡とか明確な帯郭跡を思わせる遺構は確認はできませんが、それでも僅かながら段差のある平場、変形した地形といったものが見られます。
 
 近年、農地開墾等で段丘を削平したり、変形した田畑を作り直すといったこともあったと聞きますが、それでも大きく地形を崩すといったことはなかったとも言い、昔から屋敷跡があったという伝承等も存在するという・・・。


 館主、築年代、使用年代不明とされますが、かつては荒屋地区には九日市が開かれていたと伝えられ、舘と共に市で賑わう集落が形成されていた時代があったものと考察もされている。




 天ヶ森が控える地、荒屋・・・・舘と共に信仰的な事柄も先人史家によって考察され、館跡下はかつては湿地帯であり、近年まで沼も残されていたという。
 水にちなむ古の遠野の館跡には、沼の御前の伝承があり、御前沼の祠が今も祀られている。
 こうした御前沼の存在は市内に7箇所ともいわれますが、もう少し多いかもしれません。
 御前沼の存在に館跡有り、沼の御前にちなむ信仰的な内容が古いのか、館があった時代が古いのかは、それともセットとして存在していたのか?いずれ今のところ不明でもあり判断も難しいのですが、いつかは史跡としての館跡の歴史と共に信仰が伴う内容も大きく関わらなければならない時が来るものと考えております。


 荒屋の沼の御前 祠




 水田の真ん中にある祠。
 春と晩秋の時期しかおそらく市道からは目視できないものと思います。



 やはり信仰に関わる第一は早池峰であろう・・・。

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左肩下がり

2009-04-07 17:14:11 | その他
 大船渡でソメイヨシノが開花、いよいよ桜前線が岩手県に到達したようです。
 ここ1週間で県南部や沿岸地方でも桜が開花しそうでもあり、例年より早まりそうでもあります。
 そうなると遠野は2週間位先か?今後の天候次第によりますが、今月末には満開となりそうな感じがいたします。


 さて、例年4月10日頃を目途に畑の耕作作業をしておりますが、畑を管理する母親が菩提寺の檀家旅行で長野県の善光寺に出かけており、なんでも7年に一度の盛儀、御開帳とかで、これに併せての旅行のようですが、出かける際に「天気くずれねみでだがら、はだげぶっとげ」(天気が崩れないみたいだから、畑の耕作をしておけ)・・・との指令・・・汗

 天気もまあまあということで、指令通りティーラーにて耕作作業を実施いたしました。











 1年ぶりの出番というのに、エンジン始動2発目で始動、ティーラー君の調子はすこぶる快調なようだ。
 この調子で耕作作業も順調に進むかにみえましたが、方向変換の際に痛めていた左肩が「ピキッ」・・・「うっ」・・・エンジンの振動もあまり良くないみたいだっ・・・涙・・・しかし、他に代役もおらず頼める人もいないので、我慢しながら作業を続ける。
 いつもは2時間程度で終わっているのに3時間近くかかってしまった・・・涙


 小生のモチベーションも左肩下がりの状況であるが、身体そのものも左肩下がりの状態・・・涙・・・痛み止めを飲んで、汗で汚れた身体を「たかむろ水光園」の湯っこでサッパリ・・・ようやく一息ついたという気分になりましたが、なかなか肩痛も完治に至らずといったところです。


 残雪・・・たかむろ水光園駐車場



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24時間放浪記

2009-04-05 19:09:26 | その他
 阿津賀志山防塁跡の見学、以前からの念願ではありましたが、なかなかその機会が得られず状態であるも、なんとか今回、見学という運びとなり一応満足といったところでもあります。

 防塁跡至近に旧東山道跡が残されており、こちらも少し見学・・・・うれしい誤算といいますか、一粒で二度美味しい的な思いもいたしました。









 さて、防塁跡の見学はこの春には是非に実現させたいと計画しておりましたが、なんとか日帰りでも可能ということで、その当日近くまでは、見学後の動向は、ほとんど考えておりませんでした。

 しかし、ここ2週間程、独り物思いにふける状態になるとついこぼれる一言・・・「はっぱりだじぇな(全くダメだな)」・・・知らず知らずに発してしまう・・・俺が何をしたというのか、自身に対する不甲斐なさが少しずつこみ上げたりもする。
 反面、本来の職責をしっかりとしなければ、こんなことは大したことではない、前向きにやってやろうではないか・・・・しかし、またまた「やってられねぇな」・・・こんな心の葛藤が奥底でせめぎ合う・・・・こんなことではいけない、何処かで切り替えが必要、ストレスを残すような思いだけはなんとしても払拭しなければ・・・・好きな史跡めぐりとその後は何処か近場の温泉にでも入って旨い酒に肴を・・・これで解消できるなら無理しても何処かへ一泊しようと直前になって決定した次第です。


 福島だったら近場の温泉宿もいいなあ~・・・いやいや仙台まで戻ってネオン街に身を任せるのもよいかも、いや待てよ、昔凄く興味があって何度か訪ねた会津若松も遠いわけではないな・・・とか色々と脳裏を駆け巡ったりもしましたが、遠野を出てから帰宅するまで24時間という訳あり時間規制付といった具合でもあって、なかなか特定することは叶わずといったところでもありました。


 ということではありましたが・・・・・







 盛岡・東京間を走っていた2階建新幹線MAXは、今は運行されておらず乗る機会が無くなりましたが、仙台~東京間、山形新幹線つばさと連結のMAXやまびこの1階席に身をゆだねました。

 それにしても他の乗客が一人もいないという状態、ひょっとして回送電車か?と思いました・・・笑



 そして、その晩・・・・某所での酒場放浪・・・。






 酒場放浪記、吉田 類さんになった気分、「ホッピー」に「がつ刺し」・・・これもまたよく合う組み合わせ・・・・。





 自分的には行ってよかったと思っている。
 翌日早くには帰途につかなければならない状況ではあるが、かなり思いの何かが一応吹き飛んだという気持ちになれたことは確かでもあります。





 酒場放浪2軒目・・・・遠野に縁ありそうなネーミング・・・気になりながらもその由来を聞きそびれてしまった・・・汗
 おそらく、小生も皆さんも考えるような内容ではないと思われますが、それでも気になりますね・・・笑






 小生は弱い人間なのかもしれない、しかし、こんなことで少し解消できる単純な性格でもあります。
 短い、僅か24時間の史跡探訪プラス酒場放浪を終了いたします。


 場所は秘密です。
 お分かりの皆さんも場所についてのコメントはお控え願います・・・笑
 ヒント的なものはよろしいですよ・・・笑
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阿津賀志山の戦い

2009-04-04 16:16:47 | 歴史・民俗






○阿津賀志山の戦い

 文治5年(1189)2月、鎌倉の源頼朝は奥州平泉の藤原泰衡を征討するため、御家人に7月10日までに鎌倉に参集せよの命を発する。
 鎌倉軍は28万数千騎というとてつもない大軍を海道軍、大手軍、そして北陸軍の三軍を編成し、7月19日に鎌倉を出陣、奥州への征途についた。
 同月29日、白河の関を越え、いよいよ敵地奥州へと入ると、奥州勢の抵抗を受けないまま、8月7日伊達郡藤田宿(福島県伊達郡国見町)に着陣したといわれる。


 一方の平泉の藤原泰衡は、鎌倉の動きを察知すると伊達郡、刈田郡の境にある阿津賀志山に堅固な城塞を築き、さらに阿津賀志山から阿武隈川岸に至る遠大な防塁を築いて防備強化に努め、異母兄である藤原国衡を総大将に金剛別当秀綱以下奥羽の精兵2万騎を配して迎撃態勢をとって待ち構えていた。


 鎌倉軍28万4千騎・・・・軍士28万4千騎、但し諸人の郎従等加う・・・(吾妻鏡)とあるように兵員数についてはかなりの誇張はあるにせよ、山野を埋め尽くす大軍団であったことは想像できる。
 平泉第3代当主、藤原秀衡は盛んに鎌倉に対しの情報戦で侮り難し奥州勢と思わせるような布石をいくつもインプットさせている実績があり、そのひとつ奥州軍17万騎、ひと筋縄ではいかない大軍団を要する奥州平泉の印象でもあろう・・・。

 では実際の兵員数は・・・10分1程度だったという見解もあり、鎌倉軍2万5千~3万だったという・・・・?。

 一方の平泉軍は17万騎という強大な軍事力を擁していたはずが、2万騎が決戦の地に集結という史実でもあり、おそらくこの数値が藤原泰衡が集めることができる最大数だったものかもしれません・・・?。






 文治5年8月7日早朝、源平の戦いで名を轟かせた武勇の士、畠山重忠、小山朝光勢が金剛秀綱勢に攻撃を仕掛けた。
 鎌倉勢の猛攻ながらも金剛秀綱は序盤戦をよく防ぐも、ついに戦い三日目、8月10日防塁を突破される、また小山朝光が率いる小勢が阿津賀志山背後の山道を迂回して平泉軍後衛の陣に攻撃を加える。
 これに加えて鎌倉軍大手軍が防塁を越えて殺到すると平泉軍は大混乱に陥り、ここに平泉軍は壊滅、金剛別当秀綱は小山朝光に討ち取られ、子の下須房秀方(13歳)は、工藤行光の郎党に討ち取られたと伝えられている。

 総大将の藤原国衡は退却途中、鎌倉御家人、和田義盛に呼び止められ、一騎討ちに応じてその場に留まったところを和田義盛の放った矢にて受傷、殺到する鎌倉勢から逃れようと深田に人馬もろとも足をとられ動けなくなったところを畠山重忠の家人に討たれと語られている。

 今の宮城県仙台辺りの国分原に本陣を構えていた藤原泰衡は、阿津賀志山や各地の防衛拠点が次々と破られるの報で、平泉を目指して退却したといわれる。



 平泉当主の意地といいますか、逃げ戻った兵と共に雌雄を決する戦いを今一度とはならず、僅か3日の戦いでほぼ天下分け目の決戦は終了・・・平泉の命運、歴史は皆様が御存知の通りということになります。





 この場所で古の戦いが繰り広げられた、奥羽の歴史を変える戦いが・・・しかし、既に源平合戦を制した鎌倉方による全国制覇は時間の問題だったかもしれません。
 勝敗は時の運ともよく言われますが、この阿津賀志山の戦い含み、太平100年の世であった奥羽の兵と源平の戦いをくぐりぬけてきた関東武士団とは、勝負にならなかったとも言われます。
 この要因は無論大きなものでもありますが、藤原秀衡や源義経が健在だったらどうであったのだろう・・・・単なる物理的な部分のみならず時の運、これを制した源頼朝の勝利ともいえるのではないのか?




 ところで遠野においては藤原時代といわれる伝承や史跡がほとんど伝えられていない。
 鎌倉方により、また地頭として赴任した御家人達によって徹底的にその歴史や事績は葬られたのだろうか?
 それにしても無さ過ぎという感覚もあり、遠野保といわれるように平泉の影響は受けていても別世界であった遠野であったものなのか?
 遠野で平泉時代の痕跡を探訪するのも今後の課題ともなりそうです。
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阿津賀志山防塁

2009-04-03 19:11:18 | 歴史・民俗






 遠野とその周辺地域の中世城館跡探訪をひとつの趣味としている小生であるが、以前から是非とも見てみたい、探訪したいと念願していた史跡に福島県伊達郡内、国見町に残されている「阿津賀志山防塁」がありました。
 宮城県と福島県との境付近であるということで、岩手の遠野からなんとか行け付ける場所であるも、それでも何かの用とか、そのついでというわけにもいかず、その思いだけで、なかなか出かけることは叶わず状態、機会はこちらで作るものとはいいますが、思い立ったらが吉日という例えもあり、今回、時間的な制約はありましたが、やっと見学することができました。


 
阿津賀志山(厚樫山)麓の防塁跡








 主に二重の空堀と三重の土塁によって構成されている防塁、年月による風化は避けられない現実ではありますが、自分的には残存度良好といった思いでもあり、凄いものを見させていただいたという思いが強く意識されました。


攻める鎌倉軍が陣を敷いた福島市内方面




 阿津賀志山麓から阿武隈川岸までの約3.5キロにわたって築かれた防塁であるが、東北本線(鉄道)、国道4号線、その他農地開発等で、年月を重ねるうちにその遺構のほとんどが消滅という状態でありますが、阿津賀志山(厚樫山)麓の始点部分と南側の終点付近にその遺構跡が残されている。



南側部分の遺構
















 
厚樫山方向




 文治5年(1189)、奥州平泉の藤原氏征討のため、源頼朝は御家人達に同年7月までに軍を整え鎌倉に参集せよと命じた。
 一方、平泉の藤原泰衡は、鎌倉方の動向を察知すると伊達郡と刈田郡の境に位置する阿津賀志山に堅固な防備施設を構築、さらに山麓から阿武隈川岸までの大防塁を築いて鎌倉軍の来攻に備えていた。

 同年7月、鎌倉軍団は太平洋側を進軍する海道軍と中央の大手軍、北陸軍の三軍が編成され、7月末には早くも白河を越え、8月7日には藤田宿(国見町)に到達して陣を構える。

 迎え撃つ平泉軍は藤原泰衡の庶兄、藤原国衡(西木戸国衡)を大将に奥羽の精兵2万騎を以て阿津賀志山防塁に配して迎撃態勢を整え、天下分け目の大決戦が開始されようとしていた・・・・・。







 次回エントリーは阿津賀志山の戦いの予定です。


 
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