彼はしゃがみ込んで、さぁ煙草を吸おうとしてハタと気付きました。マッチを持ち合わせてい無かったのです。さて、如何しようかと考えてみて、ご近所の食堂で借りる事にしようと思い付きました。彼は立ち上がると手でパタパタと足元の汚れを叩き落とし、こざっぱりと身支度を整えると、目指す食堂に向かって歩き出しました。
『ポケットに思ったより小銭があって良かった。これで何か食べられるものでもあるだろうか?』
素うどんぐらいは買えるかもしれない。彼が向かっていたお店はしばしば家族で食事に行ったり、出前の店屋物等も頼む食堂でした。『顔馴染みだから、料金が足りなくてもそう無下には断られないだろう。』彼は気楽にそんな事を考えて歩いていました。
もしかすると、妻や子もあの食堂にいるかもしれない。そうすれば俺の細君が財布を持っている事になるのだから、代金には全く困らない。俺にすれば腹も膨れるし家族にも会える、一石二鳥というものだ。きっとあの食堂に家の奴らも居るだろう。楽観的にそう考えると彼は足どり軽く食堂の暖簾を潜りました。
「ごめんよ。」
「あら、」「おや、」「へい!らっしゃい。」
そんな聞きなれた声と、店主の声の固まった場所に彼が目をやると、驚いた事に帰ったはずの両親が目に留まりました。傍には見慣れた店主の顔もあります。3人は申し合わせたように入口にいる自分を見ていました。
彼がテーブルを見ると、両親の前には丼など並んでいます。父は食べ終わったらしく満足気に湯呑茶碗を手にしていました。母は箸を手にまだ食事途中の様子です。店主と父は、どうやら今迄母の側で世間話しをしていた様子です。
店主は彼から父に顔を向け直しました。「そんな訳で、評判はまちまちですね。」と言うと、意味ありげに彼の方をちらりと見てにやりと笑いました。彼の父は彼から顔を背けると黙って肩を落とした感じでした。
さて、思いがけず食堂に入って来た息子に、彼の母が驚いたように声を掛けました。「お前、食事時なのに、何故ここへ食べに来たんだい?ねえさん(息子の妻)と喧嘩でもしたのかい?」そう尋ねる母に、彼はいやいや、兄さんの家に出かけている間に妻子が消えたのだと報告します。