八ヶ岳西麓原村の山荘、同じく西麓茅野市の両親の家、そして鎌倉市七里ガ浜にある現在の自宅と3軒の家の建築でお世話になった、ビルダー集団ブレイスを紹介したい。ブレイスのリーダーは丸山康人さん。ベテランの建築家である。
丸山さんのキャリア形成は普通の大工や職人で始まってはいない。彼の大学時代に日本でも稀に見ることが出来るようになった、丸太のログ・ハウスから始まっている。太い丸太を手で削って作るハンド・カットのログ・ハウスは80年代の後半から90年代にかけて、日本でもかなりの棟数が建てられたことだろう。私もそうした工事の施主の一人で、あるログ・ビルダー(丸山さんではない)にそれを建ててもらった。週末田舎人などという言葉が持てはやされ、夢一杯の時代だったのだ。
丸太のログ・ハウスが法的に「丸太組構法技術基準」として日本で認められるのは1986年のことである。太い丸太を手で削って横倒しして積み上げるあのログ・ハウスは、それ以前は法律的あるいは建築構法的には広く存在しなかったことになる(膨大な書類を提出すれば建築は可能になるが、あまりに困難が多い)。1986年以降は、普通に建築確認申請をすることで、ログ・ハウスを建てることが可能になったわけだ。
上の画像は若き日(四半世紀ほど前)の丸山さん。彼がチェーン・ソーを操るところである。「丸太組構法技術基準」が定められ、ハンド・カットの極太丸太ログ・ハウスを建てることが日本でも普通に出来るようになる以前から、彼はログ・ハウスの建築に係っていたのだ。
ログ・ハウスと言えば圧倒的に山の別荘地に建てられることが多い。環境の良い所で数多くの別荘、住宅建築に係りながら、彼の建築家としてのビジネス・キャリアが始まった。現在「ログ」と言うとほとんどの人がマシン・カットの北欧製ログ・ハウスを思い浮かべるだろう。しかし90年代前半までは状況が違った。圧倒的にハンド・カットのログ・ハウスに人気があり、そのカットの方法もいろいろあって、議論がとても盛んだった。マシン・カットは北欧だけでなく北米製も多くあり、その構法や形状が多様だった。将来の可能性、広がりを感じさせ、今思い出してもすごく楽しい時代だった。
素人の私でもそれくらいの記憶がある。丸山さんはそんな世界に80年代前半に飛び込んだのだ。私の浸っている業界(資産運用ビジネス)でもそうだが、不確実でなんだかよくわからないうちに、自らリスクを取り、その世界に飛び込む勇気のある者にはそれだけの先行者利得がある。丸山さんも、誰よりも先にいろいろと新しいことを見るチャンスがあったはずである。
丸山さんのキャリア形成は普通の大工や職人で始まってはいない。彼の大学時代に日本でも稀に見ることが出来るようになった、丸太のログ・ハウスから始まっている。太い丸太を手で削って作るハンド・カットのログ・ハウスは80年代の後半から90年代にかけて、日本でもかなりの棟数が建てられたことだろう。私もそうした工事の施主の一人で、あるログ・ビルダー(丸山さんではない)にそれを建ててもらった。週末田舎人などという言葉が持てはやされ、夢一杯の時代だったのだ。
丸太のログ・ハウスが法的に「丸太組構法技術基準」として日本で認められるのは1986年のことである。太い丸太を手で削って横倒しして積み上げるあのログ・ハウスは、それ以前は法律的あるいは建築構法的には広く存在しなかったことになる(膨大な書類を提出すれば建築は可能になるが、あまりに困難が多い)。1986年以降は、普通に建築確認申請をすることで、ログ・ハウスを建てることが可能になったわけだ。
上の画像は若き日(四半世紀ほど前)の丸山さん。彼がチェーン・ソーを操るところである。「丸太組構法技術基準」が定められ、ハンド・カットの極太丸太ログ・ハウスを建てることが日本でも普通に出来るようになる以前から、彼はログ・ハウスの建築に係っていたのだ。
ログ・ハウスと言えば圧倒的に山の別荘地に建てられることが多い。環境の良い所で数多くの別荘、住宅建築に係りながら、彼の建築家としてのビジネス・キャリアが始まった。現在「ログ」と言うとほとんどの人がマシン・カットの北欧製ログ・ハウスを思い浮かべるだろう。しかし90年代前半までは状況が違った。圧倒的にハンド・カットのログ・ハウスに人気があり、そのカットの方法もいろいろあって、議論がとても盛んだった。マシン・カットは北欧だけでなく北米製も多くあり、その構法や形状が多様だった。将来の可能性、広がりを感じさせ、今思い出してもすごく楽しい時代だった。
素人の私でもそれくらいの記憶がある。丸山さんはそんな世界に80年代前半に飛び込んだのだ。私の浸っている業界(資産運用ビジネス)でもそうだが、不確実でなんだかよくわからないうちに、自らリスクを取り、その世界に飛び込む勇気のある者にはそれだけの先行者利得がある。丸山さんも、誰よりも先にいろいろと新しいことを見るチャンスがあったはずである。