この投稿はかなり長い。前回の続きで龍口寺のお話である。
日蓮聖人の法難の地のひとつがここ(藤沢市片瀬)だ。戦いで大きな成果を挙げて凱旋した義経が、その活躍ぶりゆえ逆に頼朝に警戒され、鎌倉に入ることを拒絶され留め置かれたのもこの地の隣の腰越(鎌倉市腰越)である。
今はそれぞれ藤沢市や鎌倉市に編入されているが、かつての片瀬村(現藤沢市の一部)、腰越村(現鎌倉市の一部)、津村(同)は旧鎌倉を外に出た地域。北鎌倉の建長寺がある場所も建長寺創建以前はそうであったように、ここも鎌倉の外れにあって刑場が存在した。そして日蓮聖人はここで斬首されそうになった。

日蓮証人はとにかく激しかった。
遠慮もせず、正しいと信じるところをハッキリと主張する人だった。だから日蓮宗はわかりやすいし、その後熱心な檀信徒を獲得して行くことになる。
しかし最初は鎌倉幕府や既存勢力ともいうべき他宗派から疎んじられた。何度も日蓮聖人は殺されそうになったが、その法難の地のひとつがここというわけだ。
鎌倉幕府に捕えられここで斬首されそうになったが、江ノ島の方から強い光が射して来て、そのことが暗示する日蓮聖人の力を恐れた処刑者らが処刑を中止した。

その話は七里ヶ浜の行合川にもつながる話だが、それは置いておきましょう。
というわけで、とにかくこの龍口寺は日蓮宗の霊跡本山となっている。
こちらが仁王門。江ノ電が目の前を通る場所だ。

江ノ電に乗った観光客が、車両内から見えてしまうお寺。
あとは車両内から見える寺社というと、御霊神社くらいかな。
村岡さんという仏師が作った仁王像。

口を開ける仁王像。
口を閉じる仁王像。

どちらも怒りを表しながらも表情が違う。
上には山門がある。

山門を抜けると本堂が見えるよ。

山門を通過すると左には寂光殿がある。

そこは納骨堂で、しっかりした造りだ。
空調はばっちり。お墓の形態ではなく、お骨を納めるところだ。誰でもご先祖のお骨を骨壺のまま納めることが出来る。30年あるいは50年という期間を定めてある。
その期間はお参りをし先祖の供養もして、その期間経過後は萬霊塔という合葬墓にお骨が納められることになる。
その隣には妙見菩薩像を納めた妙見堂がある。メンテナンスが行き届き若い建物に見えるが、これでも竣工後300年以上経っている。

本堂に向かって進みましょう。

右手には大書院。

信州松代藩邸か、あるいはその土地で財をなした養蚕業を営む窪田家のものとなったか、そしてそれが昭和になってここへ移築されたとのことだが、どうも真実がよくわからないらしい。
資料がない・・・ミステリアス・・・。
しかし見事な建物である。

ケヤキが主な建材らしい。
東西の方向に12間の長さがあるようだが、ケヤキではその20m以上の長さは難しい。桁は太い杉で22m近くの長い木材が使われているとのことだ。私はこの中へ入ったことはあるが、桁までは確認していない。

見事な建物だね。

寂光山とはこのお寺の山号。

先ほどの納骨堂の名前である寂光殿もここから来ている。
お城みたいな大書院も見納めで次へ移りましょう。

あちら(↓)が再び見る本堂。この角度が屋根がとてもきれいに見えるね。

本堂前に日蓮聖人像が小さく見える。
仏教の宗派も数が多いが、日蓮聖人像を境内に据えて宗派の名前を日蓮宗としてここまでその開祖を全面に押し出す宗派も珍しい。日蓮聖人はおそらく魅力にあふれた人だったのでしょう。
鐘楼があるね。

龍口寺ってとてもオープンなお寺なんだが、これもそのひとつ。
誰でもこの鐘をついてよいのだ。
お題目、つまり南無妙法蓮華経と唱えながらごぉ~~~んと一度だけついてみよう。

軽くね。
無茶な力を入れてついてはいけない。
この鐘を痛めてしまうだけだ。軽くでいい。品よく鐘をつきましょう。

南無妙法蓮華経で・・・ごぉ~~ん。

そのあとに静寂が訪れる。
山号は寂光山だから・・・
南無妙法蓮華経。
インドで生まれた仏教は中国へ伝わり、その教えは漢字で書かれるようになる。南無(なーむ)はナマスとかナモとか言うが、古代のインド・サンスクリット語で帰依すること、信じること、お任せすることを意味する。
南無に続く妙法蓮華教は略して法華経だ。仏教の経典のこと。妙はこの世の真理。法はお釈迦様の教え。蓮華は蓮の花で、沼や池からまっすぐに茎をのばしその上に花を咲かせる仏教的な美しい花。なんと為になる私のブログ(笑)
南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。インドから始まり中国で漢字になり、日本に伝わり、それを我々は日本語として読んでいる。
お茶という言葉に似ているね。中国で茶、インドでチャイ、日本でも茶、フランスでテ、英国でティ。
サンスクリット語は欧州にまで伝わる。それはまたあとで。
ここに代々の住職様(ここでは貫首様と呼ぶが)を祀ってある。

新しいものだが、龍口寺に来たら、この魅力的なお寺がここに今あることをここで感謝しましょう。
浄行菩薩像だ。水で洗い流す。

穢れと言うか、煩悩と言うか、とにかく自分の拙い部分を洗い落とすことが出来るらしい。水で浄行菩薩像を洗いましょう。
日蓮宗のお寺に多い菩薩像だ。
こちらは萬霊塔である。

墓じまいがあれば、お骨はここへ。
あるいは最近のことだから、最初からここへ合葬墓として葬られるお骨もある。
それって少子化・流動化でお墓の継承者がいないという問題の反映でもあるね。
本堂の天水桶にある龍口寺の文字。その上にあるのが井桁に橘。

拡大してみましょう。

井桁に橘は日蓮聖人の生家の家紋だそうだ。
捕えられたものの斬首を免れた日蓮聖人が一晩ここで過ごしたという牢。

昔は残酷だよね。人権もなにもあったもんじゃない。
こちらは経八稲荷大明神。

このあたりの名家であった島村家の八つの守護神の一つをここに祀ってある。
島村姓は旧片瀬村、旧腰越村、旧津村あたりに今も多い姓だ。
ただし龍口寺の中興の祖ともいうべき島村家が系譜としてどう残っているのかは、よくわからない。

奥に見えているのが島村家の墓である。
江戸時代に島村家が広大な土地を寄進する以前は、龍口寺境内はもうちょっと小さかったらしい。

島村采女さんのお墓がこちら。
その横に階段がある。

階段の途中に塚がある。

これがまた面白い。
萬人歯骨塚。

日蓮聖人は歯の重要性を感じておられたらしい。ご自分の抜けてしまった歯を供養したという。
歯がダメになることは足腰が弱くなるのと同じ。運動して食べて運動して食べてを繰り返すのが人間。それができなくなると様々なところがおかしくなる。私も気を付けないと(笑)。
ここはその日蓮聖人の考え方を受けて作られた塚だ。
歯科技工士さんによるお塔婆も見える。

藤沢市の歯科医師会も定期的にここを訪れているらしい。

いろんなものがあるね。
観察するとすごいところがいっぱいの龍口寺だ。

この上には七面堂がある。

それはまたあとで訪れましょう。
先に丘の上に登ろう。

三浦半島からこのあたりにかけての植生はどこも似たようなものだ。
ケヤキやサクラなどの落葉広葉樹もあるが、クスやスダジイなどの常緑広葉樹も多く、日陰と日向が入り混じり、その下にそれ独特な低木が育つ。
代表的なのがアオキだ。

ハランもそうだね。

回らないお寿司屋さんで出て来て、その上に握りずしが置かれるのがハラン。
これもハラン。

バランとも言われる。
棕櫚も多いね。あちこちで見かける。

鎌倉の山の中に多く、お寺の境内でもよく見かける。

つわぶき。これは広範囲に育つ。

ヤツデ。

葉は7つまたは9つに分かれるが、8つには分かれないけれどヤツデ。8つは単にたくさんの意味だ(笑)
海外のガーデニング雑誌を見ていたら、このヤツデが紹介されていて驚いた。海外の人にはエキゾチックに見えるかもしれないね。
丘の上に到達。

龍口の杜という名前の樹木墓地になっている。
古くからある仏舎利塔。

今から半世紀ほど前に建てられたもので、中にはそれ以前にインドのネルー(ネールとも)首相から授けられた御神骨が納められているらしい。
この丘の上はものすごく気持ちがいいところだ。
葉山、逗子、鎌倉と続く海辺の山が藤沢に入って終わるが、その西端が龍口寺を抱えるようにそびえているこの山なのである。そこから西に向かっては遮るものがなくなる。

藤沢、茅ヶ崎、平塚と、それら3市の南半分は平らだ。
だからここからは湘南の中央部が見える。

富士山も一望できる。伊豆半島も見える。大島も見える。
すごいよ。
阿夫利神社のある大山も見えるよ。

江ノ島も見える。「かつてはよく見えた」と言うべきか(笑)。

「江ノ島が見える」が売り物のマンション群が・・・。
この日はたまたま富士山に雲がかかっていた。

残念だねえ。
晴れた日は見事なものだ。
その二日後にまた撮影に行った。
富士山に雲はかかってなかった。

見事でしょ?

こんな景色が望める場所ってそうはないですよ。
神奈川県の中央部が一望で、その先に富士山。
途中に邪魔するものがない。
そんな場所に作られたのが、こちらの樹木墓地である。

富士山を見ながら南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経・・・・。
今やお墓の考え方はいろいろある。
1. お寺の中の墓地(=そのお寺の檀家になる)
2. お寺とは関係のない霊園
3. お寺が運営する樹木墓(=そのお寺の檀家になるわけではない)
4. 他にも合葬墓、納骨堂、散骨・・・
江戸時代に始まったばかりの檀家制度は、少子化と流動化により、早くも多くの家で維持が難しくなっている。
それなら現代風に富士山も海も見える樹木墓にしようと考える人も多いことだろう。なにせ、ここは気持ちがいいもんね。
南無妙法蓮華経や茶というインドや中国でできた言葉の地域的な伝わり方を先に書いたが、この仏舎利塔もそうだ。
仏舎利塔と我々は言うが、これはインドやスリランカではstupa(ストゥーパ)と呼ばれる。そのまま英語にもなっている。高く積み上げたものを指す言葉だ。

そのストゥーパは、中国に伝わりまたも漢字があてがわれ「卒塔婆」と書かれた。
日本のお寺で使われている木製の薄い細長い板である「塔婆」は、ストゥーパをミニチュア化したものなのだ。
ストゥーパは「卒塔婆」であり、そのトゥーは漢字で書くと「塔」である。仏舎利塔(ストゥーパ)を日本式に解釈したものが五重塔等の日本的な塔である。
ちなみに檀家という言葉もインドのサンスクリット語に起源があるらしい。元は与えること。僧への喜捨である。中国を経て漢字になり、日本では檀家(だんか)さんだ。その言葉は西へも伝わり、ダン、ダーン、ドーンととにかくDとNで表わされる言葉であり、血液や内臓を他人に献じる人を意味する英語のDonor(ドナー)や寄付を意味するDonation(ドネーション)にもなる。他人に何かをさしあげるという意味だ。
龍口寺の山の中腹に五重塔(あとで紹介する)がある。この龍口寺には、同じものをインド風に、あるいは日本風に解釈したものが両方(仏舎利塔と五重塔)存在する。

その塔も英語でいうタワー(tower)もインド起源であり無関係でないかもしれないらしい。しかし真偽は定かでないと聞いた。塔とタワー。確かに音が近い。
常緑広葉樹の魅力をどうぞ。美しいね。

ここから移動する。
七面堂が見えて来た。

日蓮聖人が最期に住んだところは山梨県の身延山にある久遠寺だ。
身延山の近くには七面山があり、そこには七面弁財天がおられる。久遠寺の守護神でもあるね。そこを勧請してできたのがこの七面堂だ。

だから日蓮宗のお寺にはよくこの七面堂という建物がある。
ここで毎月19日には例大祭が行われているよ。
日蓮聖人の直弟子である六老僧の一人である日朗が七面山に登頂し、七面天女をお祀りしたのが800年以上前の9月19日。そこから毎月19日の例大祭となったわけだね。

とってもきれいなお姿をなさっていたらしい七面天女💛

会いたいわ💛
さらに移動しましょう。

至るところ、南無妙法蓮華経だらけ。

その言葉の意味はすでに解説しましたね。
ほら、日本流に解釈した stupa(ストゥーパ)が現れた。

先にご説明したとおり、仏舎利塔(高く積み上げられたもの)を意味する古代インドに起源がある言葉であるストゥーパは中国において漢字で「卒塔婆」と書かれるようになり、それは日本のお寺における塔婆であり、高い建物の塔でもある。
五重塔の手前にはこんな場所もある。

海に向かって開けていて、本堂の屋根の向こうに腰越漁港、江ノ島の突堤の東端、そして伊豆七島のひとつである大島も見える。このあたりでは大島がほぼ真南の方角を指していることになる。

ここにもお墓がある。
龍口寺の檀家さん達のお墓だ。

この絶景の地に龍口寺のお墓が新区画を募集中でもある。
神奈川県の皆さん、こちらにお墓はおかが?
海が見えるお墓を望む方はぜひどうぞ♪
さらに進むと五重塔がすぐ近くに見えて来る。

見事なものよ。
奈良や京都には多いかもしれないが、神奈川県では木造の五重塔なんてここだけだ。金具を使わない建築である。大きな地震は何度かあったわけだが、揺れるだけ揺れて倒れなかった。日本伝統の立派な建築ってそういうのが多い。
今の耐震基準にしたがって造られた金具だらけの木造建築って何?と言いたくなるね。

これを施工したのは竹中工務店だ(竣工は115年前)。竹中家は元は尾張藩保護下の宮大工。それが明治維新で失職し、関西に移り、竹中工務店となる。今の5大ゼネコンの一つだが、とても先進的な企業で明治時代から三井の倉庫やら銀行の建物を建てていった。
関西では港町神戸に神戸市立博物館(旧外為専門銀行の横浜正金銀行神戸支店)を竹中が施工している。それも見事な西洋式建築だが、同じ神戸でイスラム教のモスクなんてものも早くから施工している。
竹中工務店は先進的な建設会社であったが、一方でさすがの元宮大工だ。

こういう建築もできちゃうわけです。

これはケヤキ造りだ。

ケヤキは木目が美しい。

見とれちゃうね。
この造作をごらんください。

これがあのゼネコンの竹中?と思うが、見事なもんだね。

最後に本堂の上にある井桁に橘をもう一度。

日蓮聖人の生家の家紋。
楽しい訪問になった。
階段を下りて帰りましょう。

なんと長い投稿でしょう(笑)。
ちょっと前に掲載した龍口寺の節分の行事の画像も再度掲載しておこう。
こちらが水行。

こちらが豆まき。

龍口寺にお墓が欲しくなったら、このウェブサイト(↓)にアクセスするといいらしい。
今や大観光地となった江の島から近いので、龍口寺にも観光客が多くやって来る。しかしこのお寺は、昔から地元の人が徒歩や自転車で頻繁にやって来て参拝する場所でもある。今はシニアになった人も「子供の時なんて、私はここの境内でいつも遊んでいたよ」とおっしゃる。
拝観料なんて徴収しない。一般参拝者も(当然ながら檀信徒も)自由に入れる。近隣の保育園の園児も先に紹介した富士山が見える仏舎利塔まで近場の遠足として先生に連れられて登って来る。そういうオープンなお寺だ。