Reflections

時のかけらたち

憧れの湖東へ(2020年11月)④ 玄宮園 ・・・ Genkyu-en Garden

2021-01-11 23:25:00 | wonderland

彦根城をゆっくり回って、慌てて玄宮園の方に降りてきました。思ったより距離があり、少し焦りましたが、集合時間より少し早く入口に着きました。

彦根城の築城約50年後となる江戸初期(1679)に作られた大名庭園。玄宮園に隣接する彦根藩の二の丸御殿でもあった楽々園と合わせて「玄宮楽々園」として、昭和26年(1951)に国指定名勝に指定された。

国の名勝「玄宮楽々園」は 国の特別史跡「彦根城跡」にある旧大名庭園の「玄宮園」と隣接する井伊家の下屋敷であった「楽々園」を統合した名勝地である。元々は重臣・川手主水の屋敷であったが 大坂夏の陣で主水が死亡し空家となった跡地を整備して寛永元年(1624)頃に下屋敷を建設したと伝わる。
続く延宝6年(1678)に4代藩主の井伊直興が 下屋敷を整備し庭園を築造したといわれ その後江戸後期の文化10年(1813)第11代藩主・井伊直中の隠居屋敷として改築され ほぼ現在の姿となった。
庭園は 天守を借景として池に4つの島と9つの橋が架けられ池畔には臨池閣・鳳翔台・八景亭などの建物が配置された
今は堀で囲まれる形となっているが かつて北側は内堀と点在する島を隔て松原内湖と琵琶湖の入江に続いており 庭園北側の水門から舟で琵琶湖まで出られるようになっていた。江戸時代の下屋敷は 槻御殿や黒門外御屋敷と呼ばれ
御書院・地震の間・楽々の間・雷の間・新東西の間や鳰の間などの江戸後期の数奇屋建築が現存する。
明治以降「楽々の間」から「楽々園」と呼ばれるようになり第二次大戦前まで庭園と御書院の間に池が広がっていたが 埋め立てられ枯山水の庭となって景色が分離された。その後 下屋敷側を「楽々園」に 池を中心とする庭園部分を「玄宮園」と名付けたと思われる。
玄宮園の由来は 築造に際し参考とした庭園が 中国の洞庭湖にある玄宗皇帝の離宮庭園とされることに因む。

参考) 2018.11.29 滋賀県彦根市金亀町 玄宮楽々園

お茶がいただける鳳翔台へ急ぎ足で広い庭園を回ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  お茶 小山園 又玄(ゆうげん)  お菓子 いと重 埋れ木

 

お抹茶の名前の由来がわからないので調べてみたけれど、玄という文字の意味するところや、又玄斎から来たものかしら?

玄又玄とは、奥のそのまた奥「究極」の意

今之所 レ 撰玄之又玄也」 〔老子‐一〕 ④ 老荘の説いた哲理。 形も神仙も何も無く、空間・時間を超越して存在し、天地万象の根源となるもの。

《老子》第1章に〈玄のまた玄,衆妙の門〉とあるように,存在の根源にある幽遠にして神秘的なものをあらわす。色としては黒。それは〈天地玄黄〉といわれるように本来天の色である。また〈玄酒〉といえば祭礼のさいに酒の代用とされる水を意味する。

又玄斎は表千家6代家元・覚々斎(かくかくさい)の三男。裏千家の養子に迎えられ、8代家元を継承した。江戸時代中期、町人の経済が発展し、千家の茶道人口が増えていく時期に活躍。千家を中興した。

 

 

 

 

 

 

 

 

お茶をいただいて、急いできたので、もっとゆっくり庭園を見るか、城下町へ行ってみるか迷うところですが、昼食もどこかで取らなければいけないので、彦根の街を歩くことにしました。

 

 

 

 

 

 

 

冬に咲く桜に出会う旅でもありました。 二季咲桜は昭和47年に水戸から贈られたもの。

 

 

 

 

広いので、迷いながら進みます。

 

Nov. 16  2020   Hikone

 

 

コメント
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