百済寺の後は湖南三山のひとつ善水寺に向かいました。
この川の名前が知りたかったけれど、ツアーディレクターの説明は全くありませんでした。
今回の旅行で中心となった湖東三山は百済寺、金剛輪寺、西明寺に加えて湖南の善水寺、教林坊、彦根です。
岩根山善水寺の草創・中興
奈良時代和銅年間(708~715)元明天皇勅命により鎮護国家の道場として草創され、和銅寺と号した。
延暦年間、傳教大師最澄上人、比叡山を開創され、堂舎建立の用材を甲賀の地に求められた。
材木を切り出し横田川(野洲川)河岸に筏を組み、いざ流し下す段になったが日照り続きの為、河水少なく思うように材を流すことができなかった。
大師請雨祈祷の為、浄地を探されたところ、岩根山中腹より一筋の光が目に射し込み、その光りに誘われるまま当地に登られた。
山中に堂が有その東側に百伝池あり、池中より一寸八分、閻浮檀金の薬師仏を勧請され、その薬師仏を本尊として請雨の祈祷を修すること七日間、満願の日に当たって大雨一昼夜降り続き、流の勢いのまま、材は川を下り琵琶湖の対岸比叡の麓に着岸したと云う。
後に、京の都で桓武天皇御悩の際、大師,霊仏出現の池水を以って薬師仏の宝前にて病気平癒の祈祷、医王善逝の秘法を修すること七日、満行なってこの霊水を天皇に献上されたところ、御悩忽ち平癒された。この縁に依って岩根山善水寺の寺号を賜わったという。
岩根山
善水寺の山号にもなっている岩根山は、通称十二坊山と言われているが、かつては嶽、甲賀山とも呼ばれていた。
医王山
本堂北側の山を医王山という。医王とは薬師如来のことである。
十二坊
当山古記によると、善水寺山内を三尾に分け、本堂を中心とする『中尾』、東側清涼山を『東尾』、西側十二坊山を『西尾』と称し、山内には一時二十六の坊舎があったという。坊舎とは僧侶の住居のことで、一坊には数名の者が生活をし、二十六坊があった往時、全山では数十名からあるいは百名を超えるほどの僧侶が在住したと思われる。
十二坊とは、善覚院、中之坊、角之坊、岩蔵坊、持蓮坊、宝泉坊、角心坊、善明坊、浄心坊、大門坊、宝乗坊、実蔵坊。
百伝の池
ももつてのいけと読む。別名を賀茂池、また岩根の池という。この池水が善水の元水となった。
本堂再建
前身の本堂は延文5年(1360)に近くの中の坊より出火、延焼により焼失してしまったが足かけ7年の歳月をもって現在の本堂は再建された。堂内の仏尊は運び出され、再建の後もとに戻された
元亀の法難
元亀2年(1571)9月12日比叡山を焼き討ちした信長軍は、その3日後、9月15日に当山善水寺を焼き討ちした。
本堂、塔、仁王門、六所権現社の四棟は焼討ちよりのがれたが、現在は国宝の本堂のみが焼討ち以前の建造物である。
善水寺HPより
善水寺に着きました。こちらはこじんまりしたお寺です。
素晴らしい本堂の中で住職さんのお話を聞きました。1000年以上の歴史の中、守られてきた祈りに、奈良に行った時と同じような感動を覚えます。
この辺のお寺はもれなく信長の焼き討ちにあっているのかしら・・
夕食を取るために守山に向かいます。近江牛 咲蔵というお店でした。宇野宗佑元首相が生まれ育った町屋を改装しているとのこと。
守山宿もとてもおもしろそうだったけれど今回は食事だけでした。
ライトアップの教林坊が最後の訪問です。
24歳の頃白洲さんの「かくれ里」を読んでどんなに山奥かと思いましたが、民家が近くにあるようなところでした。
歴史
推古13年(605年) 聖徳太子が観音正寺を創設した際に塔頭の一つとして開かれたと伝わる。石窟に祀られた伝聖徳太子作の石仏「赤川観音」が本尊。寺名は林の中で太子が説法したことに由来。
戦国時代の騒乱に巻き込まれて衰亡するが、天正13年(1585年)に再興
1975年頃から1995年まで無住の寺で荒廃していたが、その後復興。
小堀遠州作と伝えられている庭には苔生した庭石、巨石が点在していて白洲正子に「石の寺」と紹介される。
飛鳥時代に聖徳太子によって創建された教林坊は、別名「石の寺」と呼ばれる。春と紅葉シーズンのみ一般公開される。江戸時代前期に作られた書院前には、国指定名勝庭園の小堀遠州によって作庭された「遠州庭園」と、室町時代に作庭された苔庭「普陀落の庭(ふだらくのにわ)」がある。
荒廃した寺を復興した住職の広部光信さん ©朝日新聞
ちょうど15日からライトアップが始まったばかり。紅葉には早かったようで、パンフレットのようでなくてがっかり。
今度昼間に来てみたいです。
初日は聖徳太子ゆかりの寺でした。20代の頃も聖徳太子には何かひかれるものがあって、初めての一人旅は奈良で、飛鳥をあるきまわったことがありました。太子ゆかりの寺を訪れたことがあります。
宿泊:ホテル・ルートイン彦根
Nov.15 2020 Shiga