最近父が近くにいるようなそんな感じがしていました。何時もは母の方なのだけど。
自分を突き動かしているものは何かと思います。やりたいことがあふれて、一気に片付けたくなる時もあります。昨日のヨガで何となく体が重くてと思っていたのですが、午前中もいろいろたまっていたことができて、ヨガの後も渋谷のリサ・ラーソンまで行こうと思っていたのですが、帰りが夕方になってしまうのでポトフの続きを作るのに間に合わないかなと思ったりして延期しました。何かが自分を動かしているようにも思えます。アメリカのペンパルがインスタにたくさんコメントを入れてくれて、どうやらリサ・ラーソンと永岡さんのテラコッタや鎌倉のエレッジ・カフェをすごく気に入ったようでした。リサの猫が特に。それでクリスマスプレゼントに贈ろうかと計画しました。私を動かしているものはWhitmanの詩にあるように"A kelson of the creation is love."なのかもしれません。
遅れながら録画で見ている明智光秀で万葉集の中で好きな句は何かと聞かれて光秀は柿本人麻呂に尽きると答えていました。国やみかどへの愛、家や妻への愛を詠んでどちらも心に響くからと。 中村医師襲撃から一年たった今、長女の秋子さんはお父さんの後を追ってアフガニスタンの人たちのために歩み始めていました。人間にとっての幸せは食べることができて、家族がいっしょにいれることということが良くわかるとインタビューで話している映像を昨日だったか見ました。
先月だったか産休で長い間お会いしていなかったヨガインストラクターのレッスンをまたとれるようになって、参加していますが、自分ではもっとよく動けていたのにコロナで時短になったりして、その前から後退しているような気がしていましたが、先生に前より良くなったと言われて嬉しくなりました。継続は力と・・
それで急に父の写真を探して見たくなりました。いろいろな写真を久しぶりに見て懐かしく思う時間が流れました。
母方の祖父母の金婚式のお祝いの時だったと思います。 高輪の開東閣にて。 中央が父方の祖母。
孫の中で一番年長だった私がお祝いをあげました。この祖母の着物を今ずいぶん着させてもらっています。
中学から高校にかけて転勤で両親が九州に行ったので祖父母の家で一緒に暮らしました。私をかわいがってくれた祖母です。病院で亡くなった時も看取りましたが、お見舞いに行くと「いい孫さん」と言ってくれました。私が見た一番きれいな目は亡くなる前の祖母の目と生まれた時の子どもの目でした。
妹の結婚式で。左端の叔父は母と20歳近く離れていたので、私たちをすごくかわいがってくれました。お誕生日にドヴォルザークのレコードをプレゼントしてもらったりしていました。
父は私が小さい頃からたくさんの本を与えてくれました。家に帰るとクラスの男の子が先に来ていて、私の本を読んでいたりしてたことがありました。クラシック音楽を聴けるようにしてくれたのも父でした。
もっと小さなころから両親の役割分担で私の担当は父でした。どうしても長女はそうなるみたい。妹が母を独占しています。
この頃は吉祥寺の母の実家に住んでいました。この写真の前にお菓子がなくてすねている写真がペアになっていました。
わかりやすい子供です。
この写真の母が好きなので、前にもアップしたかもしれません。
この頃近くに住んでいたカリブチャイのHさんとお会いしていました。中学になって母が多分お聞きしたのだと思います。
妹と一緒の大好きな写真です。
父と。母が撮ったのでボケてますね。
母が亡くなるまで手元に持っていた写真
祖父がロンドンに留学していた時に、家族に贈った葉書が分厚いファイルに整理されていました。
家族への愛情にあふれあていました。特に叔父は生まれてから初めて父親に会うまで何年もたっていたので、初めて会った時に泣いたと母から聞きました。
私の結婚には猛反対の両親でしたが、最後には折れて結婚式に出てくれました。難病でハンディキャップがある彼とは私が親だったら同じようにしていたかもしれません。でも最初に母がわかってくれました。母とは私が独立して暮らし始めてから距離が縮まり、わかりあえるようになった感じがします。最後は父よりも母と近い存在になって行きました。
油絵の古茂田美津子先生、両方の母親と一緒です。彼の母は10人の子どもを育て、満州から全員連れて帰ったすごい母親です。そのころはまだ彼は生まれていませんでしたが。料理も編み物も得意な素敵な人でした。
この時はそのあとどんな人生が展開するか、想像もできませんでした。
父の写真探しから始まったのですが、支離滅裂になりました。 何十年があっという間に立ったという感じがします。
昨日の夕陽