馬場マコトさんの新著『花森安治の青春』(白水社)を読了。
1970(昭和45)年に、花森安治が「暮らしの手帖」に発表した、忘れられないメッセージ「見よぼくら一戔五厘の旗」を再読したくなった。
当時、私は松本深志高校の1年生だった。
同じクラスにいた白馬村出身の太田久彦君が、この「一戔五厘の旗」を私に読ませてくれたのだ。
太田君は、通学には遠すぎる故郷の村を出て、一人で松本に下宿していた。
学業優秀で、もの静かで、どこか大人びた少年であり、時々、私にさまざまな本や著者を教えてくれるのだった。
花森安治もそうだが、太田君を通じて知った作家の一人が五木寛之さんだ。
この時に薦められた五木さんの小説「青年は荒野をめざす」を、約30年後に自分がプロデューサーとしてドラマ化することになるなんて、思ってもいなかった(笑)。
太田君は深志高校から医学部へと進学して医師になり、現在も地域医療に貢献している。
さて、そういうわけで、今回の備忘録入りは花森安治「見よぼくら一戔五厘の旗」だ。
戦時中、召集令状がわずか一戔五厘の葉書一枚だったことから、兵隊の命のあまりの軽さを象徴させている。
原文は、ふだん私たちが使っている「銭」ではなく、「戔」という字で書かれているので、それに従って全文を掲載しておきます。
見よ ぼくら一戔五厘の旗
美しい夜であった
もう 二度と 誰も
あんな夜に会うことは ないのではないか
空は よくみがいたガラスのように
透きとおっていた
空気は なにかが焼けているような
香ばしいにおいがしていた
どの家も どの建物も
つけられるだけの電灯をつけていた
それが 焼け跡をとおして
一面にちりばめられていた
昭和20年8月15日
あの夜
もう空襲はなかった
もう戦争は すんだ
まるで うそみたいだった
なんだか ばかみたいだった
へらへらとわらうと 涙がでてきた
どの夜も
着のみ着のままで眠った枕許には
靴と 雑のうと 防空頭巾を並べておいた
靴は 底がへって
雨がふると水がしみこんだが
ほかに靴はなかった
雑のうの中には すこしのいり豆と
三角巾とヨードチンキが入っていた
夜が明けると 靴をはいて
雑のうを肩からかけて 出かけた
そのうち 電車も汽車も 動かなくなった
何時間も歩いて 職場へいった
そして また何時間も歩いて家に帰ってきた
家に近づくと
くじびきのくじをひらくときのように
すこし心がさわいだ
召集令状が 来ている
でなければ
その夜 家が空襲で焼ける
どちらでもなく また夜が明けると
また何時間も歩いて 職場へいった
死ぬような気はしなかった
しかし いつまで生きるのか
見当はつかなかった
確実に夜が明け 確実に日が沈んだ
じぶんの生涯のなかで いつか
戦争が終るかもしれない などとは
夢にも考えなかった
その戦争が すんだ
戦争がない ということは
それは
ほんのちょっとしたことだった
たとえば 夜になると
電灯のスイッチをひねる
ということだった
たとえば ねるときには
ねまきに着かえて眠るということだった
生きるということは
生きて暮すということは
そんなことだったのだ
戦争には敗けた
しかし
戦争のないことは すばらしかった
軍隊というところは ものごとを
おそろしく はっきりさせるところだ
星一つの二等兵のころ
教育掛りの軍曹が 突如として どなった
貴様らの代りは 一戔五厘で来る
軍馬は そうはいかんぞ
聞いたとたん あっ気にとられた
しばらくして むらむらと腹が立った
そのころ 葉書は一戔五厘だった
兵隊は 一戔五厘の葉書で いくらでも
召集できる という意味だった
(じっさいには一戔五厘もかからなかったが……)
しかし いくら腹が立っても
どうすることもできなかった
そうか ぼくらは一戔五厘か
そうだったのか
〈草莽(そうもう)の臣〉
〈陛下の赤子(せきし)〉
〈醜(しこ)の御楯(みたて)〉
つまりは
〈一銭五厘〉
ということだったのか
そういえば
どなっている軍曹も 一戔五厘なのだ
一戔五厘が 一戔五厘を
どなったり なぐったりしている
もちろん この一戔五厘は
この軍曹の発明ではない
軍隊というところは 北海道の部隊も
鹿児島の部隊も おなじ冗談を
おなじアクセントで 言い合っているところだ
星二つの一等兵になって前線へ送りだされたら
着いたその日に 聞かされたのが
きさまら一戔五厘 だった
陸軍病院へ入ったら
こんどは各国おくになまりの
一戔五厘を聞かされた
考えてみれば すこしまえまで
貴様ら虫けらめ だった
寄らしむべし知らしむべからず だった
しぼれば しぼるほど出る だった
明治ご一新になって それがそう簡単に
変わるわけはなかった
大正になったからといって
それがそう簡単に変わるわけはなかった
富山の一戔五厘の女房どもが
むしろ旗を立てて 米騒動に火をつけ
神戸の川崎造船所の一戔五厘が同盟罷業をやって
馬に乗った一戔五厘のサーベルに蹴散らされた
昭和になった
だからといって
それがそう簡単に変わるわけはないだろう
満洲事変 支那事変 大東亜戦争
貴様らの代りは
一戔五厘で来るぞ とどなられながら
一戔五厘は戦場をくたくたになって歩いた
へとへとになって眠った
一戔五厘は 死んだ
一戔五厘は けがをした 片わになった
一戔五厘を べつの名で言ってみようか
<庶民>
ぼくらだ 君らだ
あの八月十五日から
数週間 数カ月 数年
ぼくらは いつも腹をへらしながら
栄養失調で 道傍でもどこでも
すぐにしゃがみこみ 坐りこみながら
買い出し列車にぶらさがりながら
頭のほうは まるで熱に浮かされたように
上ずって 昂奮していた
戦争は もうすんだのだ
もう ぼくらの生きているあいだには
戦争はないだろう
ぼくらは
もう二度と召集されることはないだろう
敗けた日本は どうなるのだろう
どうなるのかしらないが
敗けて よかった
あのまま 敗けないで
戦争がつづいていたら
ぼくらは 死ぬまで
戦死するか
空襲で焼け死ぬか
飢えて死ぬか
とにかく死ぬまで
貴様らの代りは一戔五厘でくる とどなられて
おどおどと暮していなければならなかった
敗けてよかった
それとも あれは幻覚だったのか
ぼくらにとって
日本にとって
あれは 幻覚の時代だったのか
あの数週間 あの数カ月 あの数年
おまわりさんは にこにこして
ぼくらを もしもし ちょっと といった
あなたはね といった
ぼくらは 主人で おまわりさんは家来だった
役所へゆくと みんな にこにこ笑って
かしこまりました なんとかしましょうといった
申し訳ありません だめでしたといった
ぼくらが主人で 役所は ぼくらの家来だった
焼け跡のガラクタの上に ふわりふわりと
七色の雲が たなびいていた
これからは 文化国家になります
と総理大臣も にこにこ笑っていた
文化国家としては
まず国立劇場の立派なのを建てることです
と大臣も にこにこ笑っていた
電車は 窓ガラスの代りに
ベニヤ板を打ちつけて 走っていた
ぼくらは ベニヤ板がないから
窓にはいろんな紙を何枚も貼り合せた
ぼくらは主人で 大臣は ぼくらの家来だった
そういえば なるほどあれは幻覚だった
主人が まだ壕舎に住んでいたのに
家来たちは 大きな顔をして
キャバレーで遊んでいた
いま 日本中いたるところの 倉庫や
物置きや ロッカーや 土蔵や
押入れや トランクや 金庫や
行李の隅っこのほうに
ねじまがって すりへり 凹み 欠け
おしつぶされ ひびが入り 錆びついた
〈主権在民〉とか〈民主々義〉といった
言葉のかけらが
割れたフラフープや 手のとれただっこ
ちゃんなどといっしょに
つっこまれたきりになっているはずだ
(過ぎ去りし かの幻覚の日の おもい出よ)
いつのまにか 気がついてみると
おまわりさんは 笑顔を見せなくなっている
おいおい とぼくらを呼び
おいこら 貴様 とどなっている
役所へゆくと みんな むつかしい顔をして
いったい何の用かね といい
そんなことを ここへ言いにきても
ダメじゃないか と そっぽをむく
そういえば 内閣総理大臣閣下の
にこやかな笑顔を 最後に見たのは
あれは いつだったろう
もう〈文化国家〉などと
たわけたことはいわなくなった
(たぶん 国立劇場ができたからかもしれない)
そのかわり 高度成長とか 大国とか
GNPとか そんな言葉を
やたらにまきちらしている
物価が上って 困ります といえば
その代り
賃金も上っているではないか といい
(まったくだ)
住宅で苦しんでいます といえば
愛し合っていたら 四帖半も天国だ といい
(まったくだ)
自衛隊は どんどん大きくなっているみたいで
気になりますといえば
みずから国をまもる気慨を持て という
(まったく かな)
どうして こんなことになったのだろう
政治がわるいのか
社会がわるいのか
マスコミがわるいのか
文部省がわるいのか
駅の改札掛がわるいのか
テレビのCMがわるいのか
となりのおっさんがわるいのか
もしも それだったら どんなに気がらくだろう
政治や社会やマスコミや文部省や
駅の改札掛やテレビのCMや
となりのおっさんたちに
トンガリ帽子をかぶせ トラックにのせて
町中ひっぱりまわせば
それで気がすむというものだ
それが じっさいは
どうやら そうでないから 困るのだ
書く手もにぶるが わるいのは
あのチョンマゲの野郎だ
あの野郎が ぼくの心に住んでいるのだ
(水虫みたいな奴だ)
おまわりさんが おいこら といったとき
おいこら とは誰に向っていっているのだ
といえばよかったのだ
それを 心の中のチョンマゲ野郎が
しきりに袖をひいて 目くばせする
(そんなことをいうと 損するぜ)
役人が
そんなこといったってダメだといったとき
お前の月給は 誰が払っているのだ
といえばよかったのだ
それを 心の中のチョンマゲ野郎が
目くばせして とめたのだ
あれは 戦車じゃない 特車じゃ
と葉巻をくわえた総理大臣がいったとき
ほんとは あのとき
家来の分際で 主人をバカにするな
といえばよかったのだ
ほんとは 言いたかった
それを チョンマゲ野郎が
よせよせと とめたのだ
そして いまごろになって
あれは 幻覚だったのか
どうして こんなことになったのか
などと 白ばくれているのだ
ザマはない
おやじも おふくろも
じいさんも ばあさんも
ひいじいさんも ひいばあさんも
そのまたじいさんも ばあさんも
先祖代々 きさまら 土ン百姓といわれ
きさまら 町人の分際で といわれ
きさまら おなごは黙っておれといわれ
きさまら 虫けら同然だ といわれ
きさまらの代りは 一戔五厘で来る
といわれて はいつくばって暮してきた
それが 戦争で ひどい目に合ったから
といって 戦争にまけたからといって
そう変わるわけはなかったのだ
交番へ道をききに入るとき
どういうわけか おどおどしてしまう
税務署へいくとき 税金を払うのはこっ
ちだから もっと愛想よくしたらどうだ
といいたいのに
どういうわけか おどおどして
ハイ そうですか そうでしたね
などと おどおどお世辞わらいをしてしまう
タクシーにのると どういうわけか
運転手の機嫌をとり
ラーメン屋に入ると どういうわけか
おねえちゃんに お世辞をいう
みんな 先祖代々
心に住みついたチョンマゲ野郎の仕業なのだ
言いわけをしているのではない
どうやら また ひょっとしたら
新しい幻覚の時代が はじまっている
公害さわぎだ
こんどこそは このチョンマゲ野郎を
のさばらせるわけにはいかないのだ
こんどこそ ぼくら どうしても
言いたいことを はっきり言うのだ
工場の廃液なら 水俣病からでも
もうずいぶんの年月になる
ヘドロだって いまに始まったことではない
自動車の排気ガスなど
むしろ耳にタコができるくらい 聞かされた
それが まるで 足下に火がついたみたいに
突如として さわぎ出した
ぼくらとしては アレヨアレヨだ
まさか 光化学スモッグで 女学生バッタバッタ
にびっくり仰天したわけでもあるまいが
それなら一体 これは どういうわけだ
けっきょくは 幻覚の時代だったが
あの八月十五日からの 数週間 数カ月
数年は ぼくら心底からうれしかった
(それがチョンマゲ根性のために
もとのモクアミになってしまったが)
それにくらべて こんどの公害さわぎは
なんだか様子がちがう
どうも スッキリしない
政府が本気なら どうして 自動車の
生産を中止しないのだ
どうして いま動いている自動車の
使用制限をしないのだ
どうして 要りもしない若者に
あの手この手で クルマを売りつけるのを
だまってみているのだ
チクロを作るのをやめさせるのなら
自動車を作るのも やめさせるべきだ
いったい 人間を運ぶのに
自動車ぐらい 効率のわるい道具はない
どうして 自動車に代わる
もっと合理的な道具を 開発しないのだ
(政府とかけて 何と解く
そば屋の釜と解く
心は言う(湯)ばかり)
一証券会社が 倒産しそうになったとき
政府は 全力を上げて これを救済した
ひとりの家族が
マンション会社にだまされたとき
政府は眉一つ動かさない
もちろん リクツは どうにでもつくし
考え方だって いく通りもある
しかし 証券会社は救わねばならぬが
一個人がどうなろうとかまわない
という式の考え方では
公害問題を処理できるはずはない
公害をつきつめてゆくと
証券会社どころではない
倒してならない大企業ばかりだからだ
その大企業をどうするのだ
ぼくらは 権利ばかり主張して
なすべき義務を果さない
戦後のわるい風習だ とおっしゃる
(まったくだ)
しかし 戦前も
はるか明治のはじめから 戦後のいまも
必要以上に 横車を押してでも
権利を主張しつづけ
その反面
なすべき義務を怠りっぱなしで来たのは
大企業と 歴代の政府ではないのか
さて ぼくらは もう一度
倉庫や 物置きや 机の引出しの隅から
おしまげられたり ねじれたりして
錆びついている〈民主々義〉を 探しだしてきて
錆びをおとし 部品を集め
しっかり 組みたてる
民主々義の〈民〉は 庶民の民だ
ぼくらの暮しを
なによりも第一にするということだ
ぼくらの暮しと 企業の利益とが ぶつかったら
企業を倒す ということだ
ぼくらの暮しと 政府の考え方が ぶつかったら
政府を倒す ということだ
それが ほんとうの〈民主々義〉だ
政府が 本当であろうとなかろうと
今度また ぼくらが うじゃじゃけて
見ているだけだったら
七十年代も
また〈幻覚の時代〉になってしまう
そうなったら 今度はもう おしまいだ
今度は どんなことがあっても
ぼくらは言う
困まることを はっきり言う
人間が 集まって暮すための
ぎりぎりの限界というものがある
ぼくらは 最近それを越えてしまった
それは テレビができた頃からか
新幹線が できた頃からか
電車をやめて 歩道橋をつけた頃からか
とにかく 限界をこえてしまった
ひとまず その限界まで戻ろう
戻らなければ 人間全体が おしまいだ
企業よ そんなにゼニをもうけて
どうしようというのだ
なんのために 生きているのだ
今度こそ ぼくらは言う
困まることを 困まるとはっきり言う
葉書だ 七円だ
ぼくらの代りは 一戔五厘のハガキで
来るのだそうだ
よろしい 一戔五厘が今は七円だ
七円のハガキに 困まることをはっきり
書いて出す 何通でも じぶんの言葉で
はっきり書く
お仕着せの言葉を 口うつしにくり返して
ゾロゾロ歩くのは もうけっこう
ぼくらは 下手でも まずい字でも
じぶんの言葉で 困まります やめて下さい
とはっきり書く
七円のハガキに 何通でも書く
ぽくらは ぼくらの旗を立てる
ぼくらの旗は 借りてきた旗ではない
ぼくらの旗のいろは
赤ではない 黒ではない もちろん
白ではない 黄でも緑でも青でもない
ぼくらの旗は こじき旗だ
ぼろ布端布(はぎれ)をつなぎ合せた 暮しの旗だ
ぼくらは 家ごとに
その旗を 物干し台や屋根に立てる
見よ
世界ではじめての ぼくら庶民の旗だ
ぼくら こんどは後(あと)へひかない
―――花森安治『見よぼくら一戔五厘の旗』