3月11日は日本人にとって忘れ得ない日です。
一つの小さな島国から多くのものが失われ、未来に渡る大きな不安が覆い始めました。
二年前に福島から青森に向かって海岸線を車でまわりました。
まだ二年しか経たないと思えないほどに道路の整備が進み、新しい店が建ち町が形成されていました。
お金で解決できるものはどんどんと解決が為されている経過を見たように思いました。
そしてお金で解決できないものは悲しみとして人々の心の中に残り続け、議論の余地のあった南三陸町防災対策庁舎も鹿折に打ち上げられた第18共徳丸も残されたままでした。
それに触れ続けいていることは胃の腑に何か重苦しい何かを押し込まれたようでした。
それらの前ではただ祈ることしかできませんでした。
「何について祈る」か言えば、冥福でも悲しみでもなく、ただ「祈る」ばかりでした。
時に思うのは災害というのは被害の大きさによって記憶を上書きしていくように思います。
より大きな犠牲と災害が全体の記憶は上書きしていく。
でも個々の人間にとっての衝撃は「どれだけのものが失われたか」ではなくて「自分にとっての何が失われたか」なのだと思うのです。
一つの小さな島国から多くのものが失われ、未来に渡る大きな不安が覆い始めました。
二年前に福島から青森に向かって海岸線を車でまわりました。
まだ二年しか経たないと思えないほどに道路の整備が進み、新しい店が建ち町が形成されていました。
お金で解決できるものはどんどんと解決が為されている経過を見たように思いました。
そしてお金で解決できないものは悲しみとして人々の心の中に残り続け、議論の余地のあった南三陸町防災対策庁舎も鹿折に打ち上げられた第18共徳丸も残されたままでした。
それに触れ続けいていることは胃の腑に何か重苦しい何かを押し込まれたようでした。
それらの前ではただ祈ることしかできませんでした。
「何について祈る」か言えば、冥福でも悲しみでもなく、ただ「祈る」ばかりでした。
時に思うのは災害というのは被害の大きさによって記憶を上書きしていくように思います。
より大きな犠牲と災害が全体の記憶は上書きしていく。
でも個々の人間にとっての衝撃は「どれだけのものが失われたか」ではなくて「自分にとっての何が失われたか」なのだと思うのです。