「きつけ塾いちき」の鹿児島のお稽古場の前には、夜明けから賑わいを見せている朝市がたっていて、すぐ近くには、緑の木々や芝生におおわれた「共研公園」がある。
新幹線の南の終点「鹿児島中央駅」の真ん前の公園で、早朝から市民の散歩コースや憩いの場にもなっている。
そんな「公園の歴史」をご紹介しましょう。
波瀾万丈の時代・西郷隆盛の宅地跡…共研公園
明治維新に大きな役割を果たした「西郷隆盛」。
27才の時に、祖父と両親の3人を失った西郷は、その2年後の安政2年(1855年)、下加冶屋町を売り払い、この上之園町へ引っ越してきた。
一説によると、借金を返済するために移ってきたとも言われる。
それから明治2年までの14年間、西郷にとって、まさに波瀾万丈の時間が押し寄せてくるわけです。
近衛家から保護を依頼された僧月照との入水自殺もこの時期です。
ですからこの宅地跡(共研公園)は、明治という時代の幕を開ける、西郷の根城ともいえます。
「共研公園」
西郷南洲翁の宅地跡の碑(左)と、鹿児島市立女子興業学校跡地の門碑(右)
鹿児島市立女子興業学校跡地…共研公園
明治44年、易居町から上之園町へ移転してきたのは、鹿児島市立興業学校(現在の鹿児島女子高等学校)でした。
多くの人材を生み出した同校も、昭和22年6月17日の、鹿児島大空襲によって焼失…37年の学び舎の幕を閉じることになった。
共研という名前の由来
400年間の、薩摩の「郷中教育(ごちゅうきょういく)」と言われる、「青少年教育」を進めるために、「共に研鑽をつむ」として、明治12年「共研舎」を16か所に設立。
人材の育成に役割を果たすことになります。
その名を冠した「共研公園」は、昭和26年4月1日開設、多くの市民の憩いの場所として現在に至っています。
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新幹線の南の終点「鹿児島中央駅」の真ん前の公園で、早朝から市民の散歩コースや憩いの場にもなっている。
そんな「公園の歴史」をご紹介しましょう。
波瀾万丈の時代・西郷隆盛の宅地跡…共研公園
明治維新に大きな役割を果たした「西郷隆盛」。
27才の時に、祖父と両親の3人を失った西郷は、その2年後の安政2年(1855年)、下加冶屋町を売り払い、この上之園町へ引っ越してきた。
一説によると、借金を返済するために移ってきたとも言われる。
それから明治2年までの14年間、西郷にとって、まさに波瀾万丈の時間が押し寄せてくるわけです。
近衛家から保護を依頼された僧月照との入水自殺もこの時期です。
ですからこの宅地跡(共研公園)は、明治という時代の幕を開ける、西郷の根城ともいえます。
「共研公園」
西郷南洲翁の宅地跡の碑(左)と、鹿児島市立女子興業学校跡地の門碑(右)
鹿児島市立女子興業学校跡地…共研公園
明治44年、易居町から上之園町へ移転してきたのは、鹿児島市立興業学校(現在の鹿児島女子高等学校)でした。
多くの人材を生み出した同校も、昭和22年6月17日の、鹿児島大空襲によって焼失…37年の学び舎の幕を閉じることになった。
共研という名前の由来
400年間の、薩摩の「郷中教育(ごちゅうきょういく)」と言われる、「青少年教育」を進めるために、「共に研鑽をつむ」として、明治12年「共研舎」を16か所に設立。
人材の育成に役割を果たすことになります。
その名を冠した「共研公園」は、昭和26年4月1日開設、多くの市民の憩いの場所として現在に至っています。
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