ビートたけし、矢沢永吉と同い年、「お茶碗の米一粒を残さず食べなさい!」と物を大事に、戦争知らずで高度成長期を知り、使い捨て時代、全てを知る幸せな時代を送ってきました。しかし終りが見えない新型コロナウィルスは自分自身が危なく信じられない世の中になって来ました。そして今の時代の流れについていけないで右往左往です!そんな私の若き日の話の続きを..
50年前、ストックホルムで第一夜を部屋でゆっくり寝るとの願いは果たせずに、目が早く覚めました。旅に出て初めての一人部屋、そして良い部屋で緊張?(今から思うと単にビジネスホテルのシングル部屋)
早速、大使館へ行くと土曜日でしたが、「手紙を受け取りに来ただけだ」と言うと受け付けてくれました。上から8-10枚目に手紙があった時は、涙が出る思いでした。大げさでなく余りに嬉しくて叫びたい気持になりました。しかし、その手紙には、小さな紙に兄が少しか書いていませんでした。もう少し何か書いてくれれば良いのにと、京都からの手紙を取りに来ただけに残念でした。(今、思うと、そんなに書く事が無かっただけでした。初めて京都を出て、受けっとった手紙その感激はスマホ時代の現在からは分かるはずが無いです。)
取りあえずストックホルムに来た用事が済んで、当時はテレビ等で有名なコンサートホールを訪れました。ところが私の想像した所とは大違いでした。ここは、日本人のたまり場で、日本人が溢れかえっていると思っていたのでした。ここには2人がいただけでした。
手紙を書いて出そうと思っていると、一人の日本人と出会いました。安宿で一週間目で、一日パン2個で生活をしていと聞きました。当時はそれは何でも話していました。そして、その中から色々な情報を交換できたと思います。仕事を探しているといると、やはりコペンハーゲンに戻った方が良いと判断したのでした。
彼について図書館に行くと、そこは冷房も利いていて日本人も集まりやすいのかかなり多くいました。ここに、こんな所に、日本人が大勢いたとは、彼の友達の輪の中に入り様々な労働条件と状況を聞くことになりました。そのどれもがみじめなものであり、ここにいれば、この輪の中に入るのかと思うと耐えられなかったのでした。ただ、人は、良さそうな人ばかりでした。
何故か、これだけ多くの日本人を見ていると、京都ホテルの方が外人が多いのではと思った次第でした。(当時、感じたまま書いています。世の中変わり、スマホを持っているだけで使えない私から見ると、日本人が豊になって他人との繋がりが無くなってしまいました。いい時代に旅できて良かったと思っています。)
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