2. 2 習慣と歴史的生命の世界(2)
西田は、ラヴェッソンと「理解への情熱」を共有している。ここで言う「理解」とは、己が表現する目的性によって効力を有つようになる一つの統一性の中に多様性をその全体として捉えることである。それは、一つの意味作用の中に、理解の全対象と理解する意志を有つ己とを融合させることであると言い換えることもできる。この意味で、理解とは、全体的・直接的把握であり、理解するものと理解されるべき諸対象との間に有る本性的な類縁性を前提とする(ここでの「理解」の定義は、Ravaisson, De l’habitude, Métaphysique et morale, Paris, PUF, 1999 の冒頭に据えられた Jacques BILLARD による懇切丁寧な百頁を超える « Introduction »(pp. 1-103) に依拠している)。
西田は、ラヴェッソンの習慣概念の中に、世界全体の統一性とその再構成とを可能にする根本原理を見ている。これから、私たちは、西田がいかに自身の歴史的生命の論理の中にラヴェッソンの習慣論を取り込もうとしたかを見ていく。このラヴェッソンの習慣論は、その独創性と特異性においてフランス近代哲学史において際立つ『習慣論』の中に極めて凝縮された形で提示されている(ラヴェッソンの『習慣論』については、このブログを始めて間もない昨年六月四日と五日に連続して取り上げている)。
習慣は、その最も広い意味において、「一般的且つ恒常的な存在の仕方、即ち或はその諸要素の全体に亙って或はその諸時期の継起を通じて観られた一存在者の状態」(« la manière d’être générale et permanente, l’état d’une existence considérée, soit dans l’ensemble de ses éléments, soit dans la succession de ses époques », ibid., p. 105. 邦訳は、原則として、岩波文庫野田又夫訳を新字新仮名遣いに改めて引用)である。習慣は、「世界の統一性がそこから「類推」によって考えられるようになるモデル」である(« Introduction » par Jacques Billard, op. cit., p. 55)。習慣の問題は、「自然の全体」(ibid., p. 71)において問われる。習慣は、「不活性な物質から最も純粋な思想に至るまでの全体の統一性」(ibid., p. 55)を意味している。それと同時に、習慣は、「その統一性へと至る方途」(ibid.)でもある。この再び見いだされるべき統一性は、「或る実体の存在の中に、それが物質であれ観念であれ、在るのではなく、本質の中に在るのでもない。それは、形を与えるばかりでなく、その形を維持し、その形を壊そうとするものに抵抗することをそれ固有の働きとする形の力動性の裡に在る」(ibid.)。
この〈形〉の思想において、ラヴェッソが西田と極めて近い発想を持っていることがわかる。このような発想の西欧における直接的な源泉の一つは、十八世紀末のドイツロマン主義に見出すことができる。「この時代の統一性は、二つの因子の組み合わせに由来すると思われる。一つは、自然をもはや「被造物」という従属的な位階に貶めることなく、自然界の自律性をそれとして認めることで、神学のであった哲学にその独立性を取り戻させようという欲求であり、一つは、詩と哲学との再統一を通じて、万有を包括する全体性、絶対的なものそのものを考え、表現するのにまさに相応しい仕方を見出すという企図である」(Françoise DASTUR, Hölderlin, Le retournement natal, La Versanne, collection « encre marine », 1re édition, 1997, p. 100 ; 2ème édition, 2013, p. 89-90)。このドイツロマン主義の潮流を代表する詩人、文学者、哲学者たちは、生物学的意味での生命と精神的生命とを統一的・包括的に捉えようとする。その一人である詩人ヘルダーリンの作品の中に、西田の生命の思想との親近性が認められることは、西田哲学を西欧近代思想史の系譜に対して位置づけるための一つの重要な指標になる。ヘルダーリンは、全体性を「生ける時間的な全体性として考え、その全体性は己の内に内的差異化過程を統合している」と考える(ibid.)。「思想と表現とに、死せる抽象的な全体性ではなく、[…]生ける全体性をもたらすことを望んでいた」のである(ibid.)。
ヘルダーリンの親友であり、同じ精神的気圏の中で青年期を送ったシェリングの講義を聴講したことがあるおそらく唯一のフランスン人哲学者であるラヴェッソンが、ゲーテ、シラー、ノヴァーリス、シュレーゲル兄弟、ヘーゲルとこの二人などが共有していたその時代の思想的課題である全体性と絶対性の問題を己の哲学的課題とすることで、ドイツロマン主義との親近性を有っていたこと(それゆえにフランス国内では激しく批判されもした)が、同じくドイツロマン主義に親炙していた西田がラヴェッソンの発想に強く惹かれた理由の一つであろう。