内的自己対話-川の畔のささめごと

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生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(十八)

2014-06-13 00:00:00 | 哲学

2. 1 歴史的生命の論理の中へ〈種〉概念を導入することに伴う困難(6)

 西田は、何ら理論的根拠づけの手続きを踏むことなしに「血」という概念を導入することによって、生物、民族、社会などの概念を、歴史的身体による歴史的世界の形成というヴィジョンの下、一つの包括的な生命論の中に取り込もうとする。

我々は歴史的身体的に歴史的世界形成的となるのである。血は自己表現的であるのである。民族精神の根柢が血の神秘に求められる所以である。社会の成立には、民族が基とならなければならない。血の自己表現がなければならない。無論それだけで社会が成立するのではない。主体と環境との相互限定的に、作られたものから作るものへと、ポイエーシス的に社会が形成せられて行くのである。併し民族と云ふものが歴史的社会形成の根柢に考へられるかぎり、社会成立の根柢には血の自己表現と云ふことが考へられねばならない。而して血の自己表現と云ふことは、生物的身体が自己自身の内に世界の自己表現的要素を含むと云ふことからでなければならない(全集第十巻二六六頁)。

 この一節では、明らかに、生物学的次元での「血」という概念が、無媒介的に社会文化的次元での「血」と結合され、その結果として、前者が民族の直接的基礎と見なされている。しかしながら、忘れてはならないことは、生物学的意味での血もまた、一つの文化的対象なのであり、そのかぎり、歴史的対象なのだということである。それは、その概念としての登場においても、その後それが蒙る意味の変化においても、そうなのである。なぜなら、その概念としての登場もその後の意味の変化も、科学の進歩によってもたらされるからである。生物学的意味での血もまた、人間の反省的思考によってそれとして同定されるものであり、したがって、歴史とは無関係に不変な自己同一的実体として理論的基礎の位置を占めることはできない。歴史的存在として、私たちは、生物学的血に対して一定の関係を維持するが、それは、私たちの共同的概念的知見が、科学のもたらす表象を取り入れる仕方に応じてのことである。しかし、この関係は、私たちに生命とその現われについての原初的な知を与えるものではない。
 この一節に典型的な形で見られるのは、一種の還元主義的思考である。それは、生物的次元から社会的次元への理論的手続きを欠いた無媒介な移行に終わるか、有機体について得られた科学的知見の極めて杜撰で不当な一般化に過ぎない。いずれの場合にも、歴史的に限定され、どちらの方向にも同化不可能な二つの次元を媒介するための論理的契機を欠いているという点で同じ欠陥を有っている。たとえ最晩年いかに困難な歴史的状況の中で哲学的探究に万難を排して打ち込んでいたかを酌量するとしても、西田はここで弁護することが困難な理論的逸脱を犯してしまっていると言わざるを得ない。
 なぜなら、そこに見られるのは、十九世紀末から二十世紀初めにかけて、ヨーロッパ社会に蔓延した社会ダーウィニズムが犯した過ちである優生学の社会的適用の時代錯誤的な繰り返しに過ぎないからである。ところが、西田の哲学的狙いは、まさにそのような西洋近代主義の超克にあったのではなかったか。この問題に関しての西田の態度は、一個の哲学者としてあまりにもナイーヴであると言わざるをえない。
 様々な形を取った社会ダーウィニズムに共通する二重の理論的逸脱 ― 社会の「自然化」と社会学の「科学化」― に関して、西田は、まったくその危険に気づいていない。この社会の「自然化」と社会学の「科学化」とは、密接に絡み合っている。なぜなら、社会学の科学化は、極めてしばしば、自然を支配している法則と同程度に一様に適用可能な法則の支配の下に社会を置こうとする、社会の自然化を介して実行されるからである。この所謂社会学的法則は、一般に、生物学におけるダーウィニズムを模倣する形で構想されており、このような法則に基礎づけられた社会学は、生物学と接合された一種の擬似的な「自然科学」のようなものとなり、生物学の諸法則の超個体的次元への非論理的な拡張的適用に過ぎなくなる。