3. 1 生命の現象学 ― 純粋な現象性の探究(3)
現象学的探究を方向づけているもう一つの根本的テーゼは、〈現われること〉は〈存在〉より本質的だということである。つまり、現れるかぎりにおいて、ある物は在ることができる、ということである。もっと端的な言い方をすれば、「現れるだけ、在る」(« Autant d’apparaître, autant d’être », M. Henry, Incarnation, op. cit., p. 41)。この意味での現象学の存在論に対する優位性は、ミッシェル・アンリにおいて極限まで徹底化されるのだが、それは次のような仕方でである。現れることが己自身においてまさに現れることとして現れるかぎりにおいて、何ものかが、それが何であれ、現れることができるのであり、私たちに対して己を顕にすることができる。「現れることの己自身への原初的な現われ」(« l’originel apparaître à soi de l’apparaître », M. Henry, Généalogie de la psychanalyse, op. cit., p. 31)が、世界の一切の現われに先立つ。
しかし、これだけではまだ現象学の最も根本的な前提が十分に明らかにされたとは言えない。「現れるだけ、在る」とは、どういうことなのか。純粋に「現れる」ことそのことが己自身に現れるとは、いったいどういう次元でのことであり、いかにしてそれとして把握されうるのか。現象性がそれとして現象する純粋に現象学的なものとは、そもそもどのようなものなのか。これらの問に対して十分に明確な解答が与えられないかぎり、私たちは、純粋な現象性ということについて、容易に誤った方向へと導かれてしまう。とりわけ、世界の諸事物の知覚をモデルとして現象性を理解しようとするとき、世界において〈現れるもの〉と世界が〈現れること〉とに私たちの目は奪われ、その世界とはまったく独立にそれとしてそれ自身において成り立っている〈現れることそのこと〉は、それら世界の現われによって私たちから隠蔽されてしまう。