内的自己対話-川の畔のささめごと

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生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(二十五)

2014-06-20 05:00:00 | 哲学

2. 2 習慣と歴史的生命の世界(5)

習慣は次第に実体的観念となる。習慣によつて反省にとつて代る不明瞭な知性、そこでは客観と主観とが合一してゐるこの直接的知性は、実在的なるものと観念的なるものと即ち存在と思惟とがその中で合一してゐるところの、実在的直観である(邦訳四六-四七頁)。

L’habitude est de plus en plus une idée substantielle. L’intelligence obscure qui succède par l’habitude à la réflexion, cette intelligence immédiate où l’objet et le sujet sont confondus, c’est une intuition réelle, où se confondent le réel et l’idéal, l’être et la pensée (Ravaisson, op. cit., p. 136).

 この一節を明示的に参照しながら、西田は、このように定義された実在的直観(或は現実的直観)からも、自身の哲学固有の根本概念の一つである行為的直観を理解することができるだろうと言っている(全集第十巻二九〇-二九一頁)。実在的直観は、意識の発達の極限点であり、現実の全体的な知解として、習慣的な身体運動によって具体化される。この運動は、作るものの活動と作られたものとの生ける統一、つまり歴史的現実の矛盾的自己同一を現実的に構成するものである。意識の生命の只中で習慣によって実現された素質(disposition)において、知識と行動は合一する。
 ところが、西田とラヴェッソンとが最も接近する、まさにこの場所で、両者の間の差異もはっきりと見て取れるのである。一旦は実在的直観を行為的直観と同定しておきながら、西田は、意識の生成の起源にも知性と行動との同一性を見出そうとする。ところが、ラヴェッソンにおいては、この同一性は、意識の発達の極限点においてのみ見出されるものなのである。

これ[=直接的知性、すなわち実在的直観]は意識発展の極地に於て現れるものであるばかりでなく、実は意識発生の根源にあるものであるのである。何となれば、歴史的世界は、作られたものから作るものへと、習慣的に自己形成的であり、我々の意識も此から出て来るものなるが故である(全集第十巻二九一頁)。

 この一節を読むと、意識の生成と発達という問題に関して、西田が、ラヴェッソンの実在的直観に対して、行為的直観はそれをその内に包摂しうるより包括的な概念であると考えていることがわかる。しかし、行為的直観と実在的直観との差異は、それだけに尽きるものではない。生命の進化の全過程を内的かつ動的に把握し直そうという共通する全体的理解への情熱がラヴェッソンと西田それぞれに取らせた探究の方向性の違いもまた、そこによく示されているのである。