内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(十九)

2014-06-14 01:30:00 | 哲学

2. 1 歴史的生命の論理の中へ〈種〉概念を導入することに伴う困難(7)

 昨日見た社会ダーウィニズムに対する西田の驚くべき無警戒なナイーヴさは、西田哲学の最終的立場である歴史的生命の論理の中への種の概念の導入を不成功に終わらせた理論的欠陥が何処にあるかをよく示している。歴史的種という概念が生物的種からの類推によって構想されているかぎり、この理論的欠陥を克服することはできない。たとえ、この二つの種の概念が互いに区別され、生物の進化を内包した歴史的進化における二つの異なった進化の段階と位置づけたとしても、それは不可能である。この種の類推的思考は、個別的生命の主体と種に固有な集合的生命の主体とを、あたかも同心円のように重ね合わせることができると考えることへと私たちを容易に導いてしまう。そのとき、私たちは全体主義的発想まで半歩の所まで来てしまっている。場所の論理は、すべての生命体を包摂する無限に進化的な〈生命〉の論理へと変容させられるとき、そして、その結果として、その〈生命〉の中に諸個人が埋没させられ、個体としての自律性・独立性・自由が完全に奪われるとき、全体主義の理論的基礎として利用されてしまう危険から逃れるにはあまりにも無防備であるという弱点を露呈してしまうのである。
 人間が進化の産物であるということは、しかし、人間がその進化の諸条件を一切変更することはできないということを意味しているわけではない。人間は、自らの行動を律するための道徳を作り出すことができるという意味で自律的であり得る。人間は、ある一定の生命環境の中で生きるものとして作られながら、その中で新しい環境条件・生存条件を己のために作り出すことができる。歴史的身体である人間は、作られたものであるからこそ、作るものなのである。このように考えることには、西田も反対しないであろう。
 ところが、上に見たような西田の〈生命〉の論理では、進化の主体としての種に優位性が置かれ、それに対して個体としての人間の創造性には副次的な位置しか与えられない。このような考え方は、もはや時代遅れであり、せいぜい歴史的関心の対象にしかなりえないであろうか。しかし、個体から種へと、論理によってではなく類推によって移行してしまう社会生物学的発想の危険性を考えるとき、このような考え方を改めて批判的に検討しておくことは、今日尚、無益ではないと私たちは考える。
 西田の生命論は、生命を民族や血として実体化するという誤った自然化から私たちを守ってはくれない。しかし、それを一方的に批判することがここでの私たちの目的ではない。なぜなら、西田は、他方では、実体化されることは定義上あり得ない自己形成的な形として生命を把握する反実体論的な生命論を展開してもいるからである。西田の生命論は、一方で、容易には克服しがたい論理的不整合を孕んでいることは否定しがたいが、他方では、今日尚検討に値する理論的可能性を包蔵してもいるのである。