内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(三十五)

2014-06-30 00:00:00 | 哲学

3. 1 生命の現象学 ― 純粋な現象性の探究(6)

 ミッシェル・アンリによれば、昨日の記事の最後に示した西田の問い ― 意識がまさに働いているときに、意識作用をそれとして直接的に把握することはいかにして可能なのか ― に対する答えは、フッサール現象学の中には見出すことはできない。かくして、フッサール現象学の中に、解き難い難問へと現象学を導く危機が発生する。現象性の原理そのものが現象性を逃れるとすれば、現象性そのものの可能性にも疑問符が打たれざるを得なくなる。それゆえ、フッサールは、意識の最終審級を構成する自我に匿名性あるいは非人称性を与えざるを得なかった。この点において、フッサールが取った方向と西田のそれとがはっきりと別れる。西田は、超越論的自我の彼方に「場所的自己」を求める方向へと舵を取るからである(この点については、本稿第一章 2.1.2 自覚の基本構造の第三項 ―「自己に於て」参照)。
 他方、ミッシェル・アンリは、純粋な根源的内在性を主張する。そこでは、主体は距離なしに主体に現前する。最も深い内在性は、距離なく己自身に捧げられているという無窮の感受の場所である。そこでのみフッサール現象学のアポリアから逃れることができるとアンリは考える。それに対して、西田は、そのようなアンリ的な立場に近づくのではなく、むしろ次のようにアンリを批判したことであろう。アンリは、内と外、内在と超越、意識と世界、情感と表象、主体とその客体化による歪曲された投影、これらの二項間に断絶を導入し、この断絶を絶対的で疑い得ないものとして前提している、と。なぜなら、西田の「場所的自己」は、まさにこのような絶対化された断絶を超克する試みだからである。アンリのような断絶の絶対化は、絶対的内在性と純粋な外在性との関係という問題をまったく解決不可能にしてしまうことを西田はよく理解していたのである。絶対的内在性における距離なき自己現前に生命の絶対的価値を与えることによって、アンリは、世界の現われを〈生命〉の自己贈与・自己限定・自己形成として考えることを頑なまでに拒否する。しかし、西田はアンリにこう問うであろう。真実在として探究しなければならないのは、自己の現前と世界の現われを同時に可能にしているものなのではないのか、と。