内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(十二)

2014-06-07 00:00:00 | 哲学

1. 3 歴史的生命の論理(5)

生命は絶対現在の自己限定の世界から発生する(全集第十巻二五三頁)。

 このテーゼに凝縮されている西田の生命論は、諸々の生物を、自己表現的な世界の無数の表現的要素として、創造的世界の無数の創造的要素として捉えている。しかも、生理学的決定論を内包しており、さらには、自己限定的な絶対現在の世界において目的性に一定の現実的地位を与えてもいる。

絶対現在の世界が何処までも全体的一と個物的多との矛盾的自己同一的に、自己表現的に自己自身を形成する時、世界はコンポッシブルの世界として、その一々が独自的なる、無数の自己自身を限定する世界の形、無数の世界を含むと云ふことができる、無数なる世界の出立点即ち芽を含むと云ふことができる。そこにこの世界に於て、無数の相異なる、その一々が独自的なる生命の形が、成立する根拠があるのである(同巻二五四頁)。

 すべての可能世界を内包するこのようなパースペクティヴの中で、西田は、生命の〈起源〉を次のように規定する。

生命は主体と環境との相互限定として、形が形自身を限定するより始まるのである(同頁)。

 ここでもまたホールデーンに依拠しながら、西田は、「有機体の構造は環境への機能の維持を表現し、機能は構造の維持を表現する」と言う(同頁)。有機体という生命現象は、相互に分かちがたい構造-機能-環境の間に維持されている相互依存的な関係から成っている。一個の有機体とその個体性がそれとして判明に認識され得るということは、その有機体に生じる諸現象を、有機体が周囲の世界に対して実行する作用としてではなく、世界において顕現する現象として、もっと端的な言い方をすれば、世界の諸現象として捉えることを少しも妨げるものではない。
 西田の立場は、したがって、クルト・ゴールドシュタインの次のような立場とは明確に区別されなくてはならない。ゴールドシュタインは、有機体の実行する諸作用は、「有機体の自己実現過程の表現としてのみ理解可能である」と考える(Kurt Goldstein, Remarques sur le problème épistémologique de la biologie, 1951. Georges Canguilhem, Etudes d’histoire et de philosophie des sciences の中の引用箇所からその一部を訳して引いた。p. 346-347)。ゴールドシュタインの考えに従えば、有機体は、ただ己を実現することができるような仕方で、つまり己が実在するためにだけ環境世界と交渉を持つ。
 ところが、西田は、まったく逆に、有機体の生成を自己形成的な世界から考える。西田が言うところの自己形成的な絶対現在の世界は、それ自身の内部において、時間・空間的に限定されたある一点から己を表現する。生命現象は、この世界における一つの〈事〉として了解される。個物の立場から自己限定する矛盾的自己同一の世界における〈事〉として了解されるのである。この自己形成的・自己限定的世界は、内と外、時間と空間との相互限定的協働を通じて展開される無限の過程から成っている。この過程こそが生命活動だと西田は捉えているのである。
 生命のこのような一般的定義から出発して、西田は、自己形成的生命の世界に〈種〉という概念を導入することを試みる。このような試みが、田辺元の西田哲学批判とその独自の哲学である種の論理とを前提としていることは言うまでもなかろう。それらに対して、個物と全体的一との矛盾的自己同一という二極的な緊張が漲る西田自身の哲学的思考のシステムの中に、両者の間の媒介的中間項としての〈種〉を導入することで応えようとするとき、不可避的にある理論的困難が発生する。この困難の中に、私たちは西田哲学が内包せざるを得なかった致命的な問題点を見ることになるだろう。