内的自己対話-川の畔のささめごと

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生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(十五)

2014-06-10 00:00:00 | 哲学

2. 1 歴史的生命の論理の中へ〈種〉概念を導入することに伴う困難(3)

生物の変化は絶対現在の自己限定として、種から種へである。地球発展の或時或場所に於て、原動物、原植物と云ふ如きものがあつたと云ふのではない。有ったものは、すべて種である(全集第十巻二五七頁)。

 なぜ、ただ一つの種ではなく、複数の種が存在するのだろうか。西田は、生命の世界には複数の種が現に存在するということを単にそう認めているだけで、種の複数性の根拠について十分な説明を与えてはいない。しかし、これが理論的に深刻な結果をもたらす重大な欠落であり、この欠落が西田の政治・社会思想を誤った方向に導いたと私たちは考える。この極めて重要な問題については、しかし、西田における生物的種と歴史的種との差異を十分に理解した後で立ち戻ることにしよう。

生物的生命に於ても作られたものが作るものを作る、矛盾的自己同一である。併し生物的生命に於ては、作られたものと云ふのは尚所謂身体を離れたものではない、主体的なものを離れたものではない。此故にそれは尚真の矛盾的自己同一ではない、歴史的生命ではない。歴史的生命に於ては、作られたものは作るものに対して自立的でなければならない。それは制作でなければならない。かゝる意味に於て作られたものが、作るものを作る、我々は物を作ることによって作られる、そこに歴史的生命といふものがあるのである。物は我々に表現的に働き、我々の行動は表現作用的であり、制作的である。かゝる矛盾的自己同一の形成作用として歴史的種即ち社会といふものが考へられるのである(全集第八巻一八四頁)。

 生物的生命の世界においては、人間身体も含めた生きている生物的身体によって作られたものは、生ける主体とその環境との相互限定から成る生物的世界に完全に帰属している。生物的世界を構成している諸々の形は、相互依存的であり、種の進化を通じて確立されている規範にしたがって相互に限定し合っている。ところが、歴史的生命の世界においては、人間身体によって作られたものは、もはや純粋に生物的領域に内属するものではありえず、人間的制作によって判明な一つの形を与えられ、その形を与えた人間身体に対して一定の自律性を獲得する。人間身体によって作られたものは、歴史的に限定された或る形を有つことで、形成作用を実行する人間身体からある程度の独立性を獲得し、そのことによって、翻って、己の形に見合った制作形態・形式をこの形成作用に対して要求する。ここで問題となっているのは、作られたものと作るものとの間の相互限定的な関係である。より正確に言えば、人間身体によって作られたものとそれに対する人間身体の行動との間に維持されている、形成的・機能的関係である。
 西田はこの関係を「表現的」と形容するが、それはライプニッツの「表現」(expression)の定義を参照してのことである。この定義によると、「或る二つのものそれぞれについて言えることの間に一定の規則性を有った関係があるとき、その二つの或るものの一方は他方を表現している」(Leibniz, Discours de métaphysique et Correspondance avec Arnauld, Paris, Vrin, 1993, p. 180-181) 。つまり、或るものの中に、他の或るものの有っている関係と属性とに対応する関係と属性があれば、その時両者は互いに表現し合っている、あるいは一方が他方を表現していると考えるわけである。西田は、このような意味での表現的関係から人間社会を定義しようとする。この表現的関係は、人間身体と諸対象との間に、人間の制作によって創りだされる。この表現的関係において、人間身体とそれを取り巻く諸対象は、互いに区別され、対立することもあるが、それは矛盾的自己同一を現実的に形成している形と形との間のこととしてである。