2. 2 習慣と歴史的生命の世界(4)
ラヴェッソンと西田との間の第三の交叉点は、前者の「現実的直観」(« intuition réelle »、野田訳では「実在的直観」)と後者の「行為的直観」との間の照応関係である。「最も自由な活動性といふ完成せる形式」である意識において、「はたらくものとはたらきを見るものとは同一の存在者である、といふよりは、はたらきとはたらきを見ることとは合一してゐるのである」(« c’est le même être qui agit et qui voit l’acte, ou plutôt l’acte et la vue de l’acte se confondent. L’auteur, le drame, l’acteur, le spectateur, ne font qu’un », Ravaisson, op. cit., p. 119. 邦訳二五頁)。このラヴェッソンのテーゼは、そこに何らの修正を加えることなしに、「見る」ことと「働く」こととの実効的統一性からなる行為的直観の定義として適用することができる(この行為的直観における「見る」ことと「働く」こととの関係については、本稿第四章第一節第一項「行為的直観の世界における身体の両義性」(四月一五日から一八日までの記事)を参照されたい)。実際、西田は、内的統覚によって把握された行為的直観の適切な説明の一つを、ラヴェッソンによる「直接的知性」(« intelligence immédiate »)の中に見出している。この直接的知性は、習慣の形成発展過程において反省を引き継ぐものとして現勢化される。
反対者の間の距離を経巡り且つ量るところの反省に次第に取つて代るものは、相対立するものの中間者、いひかへれば、思惟の主観と客観都の分離の存しない直接的知性である(邦訳四六頁)。
A la réflexion qui parcourt et qui mesure les distances des contraires, les milieux des oppositions, une intelligence immédiate succède par degré, où rien ne sépare le sujet et l’objet de la pensée (ibid., p. 136).
反省及び意志に於ては、運動の目的は、一つの観念、即ち完成すべき一理想である、存在すべくまた存在し得、しかも未だ存在せざる何ものかである。それは、実現すべき一つの可能性である(同頁)。
Dans la réflexion et la volonté, la fin du mouvement est une idée, un idéal à accomplir, quelque chose qui doit être, qui peut être, et qui n’est pas encore. C’est une possibilité à réaliser (ibid.).
したがって、目的と運動との間には距離がある。ところが、習慣の形成発展過程において、目的を目指す意志が、この目的を実現することができる有機的傾向に取って代わられていくにつれて、つまり「目的が運動と、運動が傾向と合一するに従つて」(ibid. 同頁)、「観念は存在となる。観念はそれの決定する運動及び傾向の存在自体且つ全体となるのである」(« l’idée devient être, l’être même et tout être du mouvement et de la tendance qu’elle détermine », ibid. 同頁)。