3. 1 生命の現象学 ― 純粋な現象性の探究(5)
しかしながら、意識は志向性であるという現象学にとっての根本的なテーゼを忘れるわけにはいかない。志向性を有ったものとして、意識は、己を外へと投企する運動にほかならない。もし意識の「実体」というものを考えるとすれば、それは、この外への到来に尽きるのであって、それが現象性を発生させるのである。この〈外への到来〉において、あるいは、〈距離を置くこと〉において、何かを現われさせること、それが見るということである。見るということは、〈見ること〉の前へと置かれ、見られるものに対して、距離を置くことに他ならない。現象学の対象は、このようにして前に置かれ、見えるものとなったものと定義される。〈現われること〉とは、ここでは、対象が現われることであり、それは二重の意味においてである。まず、現われるものが対象であるという意味において。そして、現れるものが対象である以上、ここで問題となる現われ方は、その対象に固有で、その対象がそれとして現われる現われ方であるという意味において。この現われ方が、私たちにとって見えるものとなりうるすべてのものの可視性を生じさせる〈距離を置くこと〉に他ならないのである。
以上のように志向性を理解するとき、次のような一連の問いを立てなくてはならなくなる。すべてのものを見えるものとする志向性そのものは、いかにして己自身に顕にされるのか。それはそのための新たな志向性を要請するのか。もしそうであるとすれば、現象学は無限背進に陥らないのか。あるいは、志向性そのものには、〈現れるもの〉とは別の開示のされ方があるのであろうか。このような一連の問いが西田によって実質的に問われたのは、西田が自覚の概念を精錬していく過程で次のような問いを自らに発した時である。意識がまさに働いているときに、意識作用をそれとして直接的に把握することはいかにして可能なのか。