内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(三十)

2014-06-25 00:00:00 | 哲学

3. 1 生命の現象学 ― 純粋な現象性の探究(1)

 「生命」は、ミッシェル・アンリの哲学の根本語の一つである。アンリは、例えば、次のように生命を定義する。「生命は、己自身を感受するものであり、己が感受するものすべて、己を触発するものすべて、己が己自身において自らを触発するという前提条件の下においてのみ、己を触発するものすべてである」(« La vie est ce qui s’éprouve soi-même et tout ce qu’elle éprouve, tout ce qui l’affecte, ne l’affecte que sous cette condition préalable qu’elle s’affecte elle-même en soi », Généalogie de la psychanalyse, PUF, 1985, p. 97. 同書には、邦訳『精神分析の系譜 ― 失われた始源』法政大学出版局、叢書ウニベルシタス、1993年があるが、手元にないので、同書からの引用はすべて私訳。その他のアンリの著作からの引用もすべて私訳である )。生命は、本質的に、「己自身を感じる」(« se sentir soi-même », Essence de la manifestation, PUF, 1963, p. 578. 邦訳『現出の本質』上・下、法政大学出版局、叢書ウニベルシタス、2005年)ということのうちにある。最初の著作から最後の著作まで、つまり、アンリの思想の中核におて現動つつある本質がまさに生命と呼ばれていた1963年の『現出の本質』から、キリスト教のほとんど神秘主義的擁護論とも見なされた方向へと自らの生命の哲学を徹底化していった、生前最後の出版である2000年の Incarnation. Une philosophie de la chair (Seuil, 2000. 邦訳『受肉 ― 「肉」の哲学』法政大学出版局、叢書ウニベルシタス、2007年)まで、アンリのすべての思索は、次のようなただ一つの直観 ― 主体性の本質は生命であり、生命は己の享受と受苦において己自身を感受する ― から発出している。この意味で、ミッシェル・アンリの哲学は、まさに、一つの生命の哲学であると言うことができる。
 アンリの生命の哲学は、実質的には、一つの生命の現象学として展開されている。この現象学は、生命の本質を原初的な現われの本質として捉え、その生命がまさに有るところでそれを捉えようとする。それはどこで可能なのか。ありのままのこの私たちにおいてである。この現象学が自らに課すのは、自ずと己に現れるものをその最も内奥の初元の可能性において捉えることである。
 一般に、現代哲学史においては、アンリの徹底した生命の現象学もまた、フッサール現象学を淵源とし、ハイデガーやマックス・シェーラーなどによって展開された現象学の系譜に連なると言うことができるが、アンリ自身はフッサールやハイデガーに対して、その不徹底・錯誤・逸脱等を、厳しく批判する。そこで、私たちは、以下において、アンリの生命の現象学がいかなる点においてこの系譜を継承し、いかなる点においてそこから離れていくかを見ていく。