3 ― 自己触発的生命から自己形成的生命へ
私たちは、ここまで、生命論を軸にして西田哲学をフランス哲学の鏡の中に様々な角度から映し出すことを試みてきたが、このような試みの最終段階として、西田とミッシェル・アンリとの対質を行う。
前章までですでに、私たちは、ミッシェル・アンリに明示的にあるいは示唆的に何度か言及してきたが、それは、主に、西田の自覚概念を現象学の根本問題との関係で位置づけるためであり(第一章第二節)、また、西田における内的生命の問題に一つの照明を与えるためであった(本稿第三章)。それらの言及は、無論、この二人の哲学者の探究姿勢の根柢に親近性があると認めてのことであった。西田哲学の展開・発展・深化の過程を、生命論を中心につぶさに辿ってきた私たちは、この二人の哲学者の間のどこに親近性が見出されるかだけではなく、何よりも、両者の決定的な乖離点はどこにあるのかを、今や精確に表現できるところまで来ている。
〈生命〉に関してミッシェル・アンリが主張するテーゼは、西田哲学の最も完成された形であると私たちが考える歴史的生命の論理に対して突きつけられた根本的な問いかけであると見なすことができると私たちは考える。私たちは本節で、生命の本質を「自己触発」に見るアンリから発されうるであろう問いかけに対して、西田が歴史的生命の論理の立場からいかに応えうるかを見ていく。その作業を通じて、歴史的生命の論理に、いくつかの点において、より厳密な表現を与え、そうすることによって、西田自身によって探究された領野を超えてこの論理が展開・発展・深化させられるであろう方途を見出すことを試みる。
以下において、私たちは、まず、ミッシェル・アンリの生命の哲学のいくつかの根本的テーゼを提示し、そのテーゼから西田の歴史的生命の論理に対して向けられるであろう問いを引き出す。次に、翻って、最終的な西田哲学の立場から引き出され得るアンリの哲学への批判的応答を提示する。そして、最終的に、西田によってもアンリによっても解決を与えられることなく終わった根本問題を浮かび上がらせる。