内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(二十八)

2014-06-23 00:00:00 | 哲学

2. 2 習慣と歴史的生命の世界(8)

 西田の方法とラヴェッソンの方法との相補的な関係の中に、種を集団的レベルで形成された一つの習慣として捉える可能性を見出すことができると私たちは考える。この可能性は西田自身よっては展開されることはなかった。しかし、ラヴェッソンの習慣論の立場から種を考えるとき、「自由の自然への回帰、或はむしろ、自然的自発性の、自由の領域への侵入を表している」「〈習慣〉の歴史」において、「自然の最後の根柢と反省的自由の最高の点」との間に形成された集団的レベルでの習慣の一つとして種を捉えることが可能になり、それによって、西田の生命論が陥った理論的困難を克服する途が開かれると私たちは考える(上記三つの「」内の表現は、すべてラヴェッソン『習慣論』(岩波文庫、野田又夫訳)からの引用だが、一部改変してある。原文は前掲書の p. 158)。
 ここで言われるラヴェッソン的意味での「自然」とは、ドミニック・ジャニコーによれば、次のように定義される。

自然は、そのとき、現実の充溢性、つまり、一般的というのではなく、優れた意味においての、存在(être)を意味している。自然は、知解に属するものでもなく、受動的なものでもない。自然は、悟性を逃れる。なぜなら、悟性は、非連続的な仕方で、現実の枠組みしか捉えず、したがって、自然をその輪郭において把握するだけだからである。自然は、受動的ではない。なぜなら、自然は、私たちの意志によって外から限定されないからである。私たちは、ここで、自然の最も重要な性格を発見する。それは、自然が私たちの意志を逃れるのは、自然それ自体が自発性だからである、ということである。

La nature désigne alors la plénitude de la réalité, l’être, non plus en général, mais par excellence. Elle est à la fois non intellectuelle et non passive. Elle échappe à l’entendement, parce qu’il ne saisit, de manière discontinue, que les cadres de la réalité, donc seulement la nature en ses contours. Elle n’est pas passive, parce qu’elle n’est pas déterminée de l’extérieur par notre volonté. Nous découvrons ici le caractère le plus important de la nature : si elle échappe à notre volonté, c’est qu’elle est en elle-même spontanéité » (Dominique Janicaud, op.cit., p. 45).

 ここで、自然が人間の意志を逃れるということは、しかし、意志と自然とは截然と分離されるということを意味しているのではなく、寧ろ逆に、〈自然〉の普遍的統一性の中への意志の領域の存在論的内含ということを意味している。この普遍的な〈自然〉は、己の裡に三つの存在様態を内含している。その三つの様態とは、「ありたい」(vouloir être)、「あらねばならぬ」(devoir être)、「ありうる」(pouvoir être)であり、それらの様態は、それぞれそれとして判別されうるが、相互排他的範疇ではなく、寧ろ互いの間の相互転換可能性を有っている。この相互転換の可能性の条件がまさに素質(disposition)としての習慣なのである。
 このようなパースペクティヴに立って〈自然〉を見るとき、種は、実体的なものでもなければ、抽象的なものでもなく、「習慣的なもの」として捉えられるようになる。種は、私たちの意志からまったく独立した一個の存在でもなく、私たちの思弁によって恣意的に構成されただけの虚構でもない。そうではなく、種は、或る一定の生活形式を共有する個体のグループにおいて形成された一つの習慣として現れる。この習慣は、それら個体間に共有された、いわば一つの「歴史」として形成され、維持され、発展させられる。〈習慣〉の歴史は、その歴史において私たちが帰属する種の形成過程を「内側から」理解させ、作られたものから作るものへと ― つまり、非人称的な自然の自発性から、個人において自覚される個性的な自発性が発現する意識へと ― 展開する歴史の流れの中に種を位置づけることを可能にする。
 かくして、私たちは、歴史的生命の論理に従いながら、整合的な仕方で、種の可塑性とそれに帰属する個体の創造性とを同時に認めることができるようになる。そこから、次のように言うことができるようになる。一方で、種は、それに帰属する各個体にその種に固有の生命活動形式を課すが、しかし、他方で、その各個体は、己に課された既存の生活形式を破り、世界の中に新しい生活形式を創造し、その形式を習慣として新たな規範を己に与えることによって、個性的な創造性を発揮する可能性を有っている。

 以上見てきたように、論文「生命」は、自らの限界を越えていく理論的可能性をその内に秘めていた。ところが、西田は、この論文を未完のままにして、論文「場所的論理と宗教的世界観」の完成に最後の哲学的努力を傾注する。この論文が完成されたのは、西田が死を迎える昭和二十年六月七日の約二ヶ月前のことであり、その後に論文「生命」を完成させるための時間は、西田にはもう残されていなかった。『善の研究』執筆時代以来「哲学の終結」と考えていた宗教の問題に最後の数ヶ月間を捧げることで、西田は、哲学者としての生涯を終えたのである。
 しかし、私たちは、本稿においては、この西田にとって哲学の終局的な問題である宗教の問題の手前に留まることにしよう。なぜなら、私たちが本稿において自らに課した課題は、西田がそこで立ち止まった限界を超えて、歴史的生命の論理を展開させる方途を見出すことだからである。