内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(十七)

2014-06-12 00:00:00 | 哲学

2. 1 歴史的生命の論理の中へ〈種〉概念を導入することに伴う困難(5)

 何が歴史的種を、つまり歴史的生命の形を現実的に構成しているのだろうか。それは、世界の自己表現的要素である「歴史的身体」にほかならない。以下、少し長くなるが、西田が最晩年「真の生命の世界」というとき何を考えていたかが凝縮された形で表現されている箇所を、その特有な思考のスタイルを見るためにも、そこに見られる頻繁な同一表現の反復を一切省略せずに引用する。

それ自身によつて有り、それ自身によつて動く真実在の世界は、全体的一の自己否定的に、空間的に、何処までも物質的である。併し矛盾的自己同一的に、逆に全体的一の自己肯定的に、時間的に、何処までも生命的である。世界は絶対現在の自己限定として無限に自己に於て自己を映す、自己表現的である、自己表現的に自己自身を形成する。是に於て世界は身体的である、個物的多は細胞的である。併し世界が絶対現在の自己限定として何処までも自己表現と云ふ時、単に内と外との整合的関係として、時間によつて裏附けられた空間の自己限定として、形が形自身を限定すると云ふに止まることはできない。かゝる生命は尚空間的である、物質的である、全体的である。かゝる生命の世界は尚それ自身によつて有り、それ自身によつて動く世界ではない。真の生命の世界ではない、真の生命の世界、それ自身によつて有り、それ自身によつて動く世界は、何処までも内が外、外が内に、絶対の否定即肯定として創造的世界でなければならない。自己表現に於て自己を有つと云ふことは、自己を他に於て有つ、自己を外に有つと云ふことでなければならない。併し単なる外に、自己と云ふものはない。自己を外に有つと云ふことは、外を内に有つこと、他を自己に於て有つことでなければならない。自己表現的に自己自身を形成する世界は、単に内外の整合的に自己自身を形成する世界ではなくして、内に絶対の自己否定を含み、絶対の否定即肯定的に、自己自身を創造する世界でなければならない。内外の整合的世界は創造的世界によつて基礎附けられて居るのである。創造的世界とは、無体系的な、恣意的な世界ではない、絶対の自己否定によつて裏附けられた世界であるのである。是に於て個物的多は単に種的細胞的即ち萌芽的ではなくして創造的要素として意志的である。自己自身の内に世界を表現する、世界を宿すことによつて、無限に欲求的であり、世界の自己表現的要素として何処までも意志的であり、形成的である。かゝる場合、私は歴史的身体的と云ふのである(全集第十巻二六〇-二六一頁)。

 この箇所を読むかぎり、歴史的身体は、何よりもまず個別的な人間身体を指している。この人間身体が、歴史的世界において制作的に働き、その世界を対象化されかつ対象化する一定の形として表現する。歴史的身体は、歴史的世界においてそれ固有の働きを有っているが、それでも尚、生物的世界に帰属する生物的身体とは不可分である。しかし、歴史的身体は、絶えず歴史的秩序に向かって生物的秩序を超え出て行こうとする。歴史的身体は、「生物体の如く単に自己自身の存在を目的とする目的的存在ではなくして、自己否定即自己肯定として何処までも自己を越えたものに於て自己を有つのである」(同巻二六三頁)。そうであるかぎりにおいて、歴史的身体は、真の生命の世界である歴史的生命の世界の創造的要素なのである。
 生物的身体と歴史的身体との間の還元不可能な差異は、歴史的身体にはそれ固有の創造的形成作用があるということである。この作用が意識的・意志的に或る新しいものを身体の外部に作り出し、その作り出されたものが身体のそれ以後の制作的行為の新しい形を限定する。
 ところが、ここで重大な問題が発生する。というのは、西田は、最初は個別的な人間身体のために構想されたこの歴史的身体の定義を、無媒介にかつ直接的に、人間社会の定義にも適用するからである。社会が個別的な人間身体の延長であるかのように構想するのである。しかし、人間身体と社会との関係、つまり、定義上歴史的身体であるところの私たちの身体と類推によって歴史的身体とみなされる社会との関係についての議論は、西田において、一つの人間社会論として成り立つほど十分に詳細で厳密な仕方では展開されていない。そこに見られるのは、容易に正当化しがたい、さらには危険でさえある類推的思考である。なぜなら、このような無媒介な類推を容認してしまうと、有機的な全体と見なされた社会の中に、個体であるところの諸個人が無差別的に没入してしまい、創造的な個別性が隠蔽されてしまうからである。ところが、この個別性こそ、歴史的に限定された私たちそれぞれの身体に、或る社会に帰属しつつ、その社会に対する自律性・独立性・自由をもたらしてくれるものなのである。
 無媒介に生命論と社会論とを繋ぐことによって、西田は、ここで、致命的とも言える理論的陥穽に陥ってしまっていることは否定しがたい。