内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(二十三)

2014-06-18 00:30:00 | 哲学

2. 2 習慣と歴史的生命の世界(3)

 西田とラヴェッソンとは、その哲学的発想において、どのような点で交叉するのだろうか。以下、特に注目すべきと思われる三つの交叉点を取り上げる。
 第一の交叉点は、生命の始まりに関するテーゼにおいて見出される。ラヴェッソンによれば、生命は、「時間に於ける継起的統一」(« unité successive dans le temps », Ravaisson, De l’habitude, PUF, 1999, p. 110. 邦訳十二-十三頁)である。この統一は「有機組織」(organisation)に他ならず、この有機組織は、「空間に於ける異質的統一」(« unité hétérogène dans l’espace », ibid. 邦訳十二頁)である。そして、「継起と異質性とともに、個性〔不可分割性〕が始まる」(« avec la succession et l’hétérogénéité, l’individualité commence. », ibid. 邦訳十三頁)。「生命とともに個性が始まる。故に、生命の一般的特質は、世界の真中に、一にして不可分な独立の一世界を形成するといふことである」(« Avec la vie commence l’individualité. Le caractère général de la vie, c’est donc qu’au milieu du monde elle forme un monde à part, un et indivisible. », ibid. 同頁)。ラヴェッソンの生命に関するこれらの一般的テーゼに対して、西田は、自身の自己形成的世界の論理に従いながら、それ固有の術語を用いつつ、独自の解釈を与える。

個性的生命が成立すると云ふことは、論理的には、時間空間の矛盾的自己同一的に、世界が自己の中に自己表現的要素を含むと云ふことに他ならない。習慣とは、かゝる世界の自己限定として、形が形自身を形成する、形の自己形成作用に他ならない(全集第十巻二八三頁)。

 ラヴェッソンの習慣を、個別的生命の生成とともに現れる自己形成作用と同定することで、西田は、習慣を自己形成的な歴史的生命の世界の只中での自己形成の原理として位置づけているのである。
 第二の交叉点は、ラヴェッソンによって『習慣論』の冒頭で以下のように規定する「素質」という概念に関して見出される。「習慣は、己がその結果であるところの変化を超えて、存続する」(« l’habitude subsiste au-delà du changement dont elle est le résultat. », ibid., p. 105-106. ここは野田訳を取らず、私訳した)。「習慣は、もはや無く未だ無いところの変化の為に、即ち可能的変化の為に、存続する。[…]それ故習慣は、単に状態であるのみならず、素質であり能力である」(« l’habitude subsiste pour un changement qui n’est plus et qui n’est pas encore, pour un changement possible. […] Ce n’est donc pas seulement un état, mais une disposition, une vertu. », ibid., p. 106. 邦訳七-八頁)。習慣とは、つまり、或る一定の秩序の下に諸事物を配置し、その配置を保持する作用からなっている。習慣は、己が生まれた世界の中に、或る一定期間存続する形の新しい配置を世界に与える能力なのである。この恒常的な形成能力は、人間の意識において十全に働く。この人間の意識においてのみ、私たちは、「習慣の範型」(« le type de l’habitude », ibid., p. 119. 邦訳二五頁)を見出すことができる。

元来機械的世界の宿命性から出て来た存在者が、機械的世界の内部に於て、最も自由な活動性といふ完成せる形式の下に、姿を現はす。然るに、この存在者こそ我々自身である。こゝに意識が始まり、意識の中に知性と意志とが輝き出るのである(邦訳二四-二五頁)。

L’être, sorti, à l’origine, de la fatalité du monde mécanique, se manifeste, dans le monde mécanique, sous la forme accomplie de la plus libre activité. Or, cet être, c’est nous-mêmes. Ici commence la conscience, et dans la conscience éclatent l’intelligence et la volonté (ibid.).

 意識は、優れた意味において、「素質」(原語 disposition には、「配置」「意向」「措置」「使用」「自由に利用・処理できること」等の意味もあり、「素質」という訳語だけではその多義性を十分に表せていない憾みがある)である。それは、意識において、世界の可変的・可動的「舞台装置」がそれとして把握されるということである。逆に言えば、この世界の舞台装置が世界自身にそれとして現れる場所、それが意識だということである。
 この場所を、西田は、「場所的有」と呼ぶ(全集第十巻二八五頁)。この場所的有は、その本性や属性との関係において限定される実体的存在に対立する。歴史的世界は、それ自体で自己同一的な実体的存在から成っているのではない。歴史的世界は、超越的・形而上学的な如何なる根拠もなしに、素質としての意識的存在を介して、変化していく。この意識的存在は、作られたものから作るものへと、己自身に特有で、自己形成的・可変的な形を己に与えながら、絶えず動いている。意識的生命は、私たちの中で素質として生きられ、それゆえに、歴史的世界が己の内に己自身を可塑的なものとして表現する無数の中心となる。
 厳密な意味での一個人は、意識とともに始まる。意識は、世界における或る秩序の中での形の自己形成の表現に他ならない。世界の中で、一個人は、身体として自己形成する場所的有として現れる。このように定義された意識的生命においては、つまり優れた意味での人間的生命においては、一個の存在は己自身に具体的な形の下に現れ、そのようにして、その個別的存在において、「世界が自覚するのである」(全集第十巻二八六頁)。私たち個別存在において形成された習慣は、私たちの意識において直接的に把握され、世界を形成する一つの出来事となる。この出来事が、自己形成的な世界の空間・時間的に限定された自発的な自己形成に他ならない。