内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(三十三)

2014-06-28 00:00:00 | 哲学

3. 1 生命の現象学 ― 純粋な現象性の探究(4)

 これらの問いに対して、西田ならば、現象性についての旧来の誤った理解に対するミッシェル・アンリによる批判を踏まえた上で、どのように答えるであろうか。西田によって厳密に規定された、哲学の方法としての自覚と諸科学の方法の基礎としての行為的直観との区別は、アンリが言うところの純粋な現れることそのことと世界の現れとの間に生じがちな混同を明確に排除することを可能にする(本稿第二章3. 2 「自覚と行為的直観との方法論的差異」参照)。己の内部に無限の形を自己贈与する自己形成的な世界を直接把握するのが行為的直観であるのに対して、自覚は、己自身を直接的に把握することに他ならなず、自覚においてこそ、自己は自己に「現れることの己自身への原初的な現われ」として現れる。このようにして、西田は、自身に固有な言語空間において、アンリと同じほど注意深く且つ入念に、自己が自己に現れることという純粋な事実を捉えているのである。
 しかしながら、アンリと西田とのこのような親近性にもかかわらず、伝統的な現象性理解を乗り越えようとする両者の試みをまさに真っ向から対立させる乖離点を忘れるわけにはいかない。アンリにおいては、自己への純粋な現われと世界の現われとは根本的に異なった二つの次元にそれぞれ属し、ただ前者のみが「世界の現出に先立って生命が己自身へと到達する、より深い次元」(Généalogie de la psychanalyse, op. cit., p. 7)に同定され、後者は、「それ自身で産出することができない」(ibid., p. 130)、定義上「主体的生命の本源的な自己顕現」(Rudolf Bernet, La vie du sujet. Recherches sur l’interprétation de Husserl dans la phénoménologie, PUF, 1994, p. 326)とは無縁な表象へと還元されてしまう。ところが、西田は、自覚と行為的直観との弁証法的な関係を確立することによって、自己形成的な歴史的生命の世界において行為的直観によって自覚が直接覚知される場所を特定している(この点については、本稿第二章 3. 1 「歴史的実在の世界において行為的直観によって直接把握可能になる自覚」参照)。西田は、おそらく次のようにアンリを批判することであろう。「ミッシェル・アンリは、この自己顕現を世界の諸事物の顕現よりも本源的なものと見なし、いわば顕現の本質そのものを成すと見なしている点において誤っている」(R. Bernet, op. cit., p. 327)。
 この決定的とも言える西田とアンリとの乖離は、どこから来るのか。それは、両者それぞれによって自己身体に与えられた存在論的身分の間の差異から来る。アンリにおいては、身体それ自身には、純粋な現われの現象性に対しても世界の現われに対しても、無力なものという副次的な地位しか与えられていないが、西田においては、自己身体は、行為的・受容的身体として、歴史的生命の世界における自覚と行為的直観との担い手というきわめて重要な地位を与えられている。この歴史的生命の世界における自己身体の場所という問題には、自己身体の内的空間という問題がどこで根本的な問題として問われるかを精確に示した後に、また立ち戻る。