内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(四十二)

2014-07-07 01:32:00 | 哲学

3. 2 世界の現われ ― 生命の外化(7)

 昨日の記事の最後に立てた問いを解くために、ミッシェル・アンリは、カントに倣って、感覚に現実産出の役割を配当する。しかしながら、まさにこの点において、アンリがカントからどの方向へと離れていくかをよく見て取ることができる。アンリによれば、感覚は「表象とは他なるもの」である(Généalogie de la psychanalyse, op. cit., p. 130)。感覚は、原初的な自己印象であり、そこではすべてが自己自身の刻印である。言い換えれば、感覚は、あらゆる脱自を排除するものとしての生命の根源的に内在的な本質に他ならないのである(voir ibid.)。ところが、アンリによれば、カントは、印象がそれ自身について有つ経験としての感覚の経験の可能性を見損なったばかりでなく、印象とその支えの役割を果たす純粋に情感的な要素とを、生気のない、冥闇で、盲目な、そして現象性の光を奪われ、己以外の権能である表象にその光を求めなければならない内容としてしまう。しかし、アンリは、表象には可能な感覚はないと断言する(voir ibid., p. 131)。この否定の構造は、世界の現われにおける生命の可能性を否定する構造 ― いかなる生命も世界の現われの内には現われ得ない ― とまったく同じ構成である。アンリにおいて、感覚は、このようにして、主体性の核心そのものとして位置づけられ、根本的内在において己自身に己を与えるという機能を引き受けるものとなる。