内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(四十九)

2014-07-14 00:00:00 | 哲学

3. 4 原初的な受苦 ― 諸々の苦しみの届かぬ底にあるもの(1)

 昨日の記事で見たような西田からミッシェル・アンリへ向けられるであろうその生命概念と主体性概念とに対する仮想的な批判は、それが身体の問題に適用されるとき、両者の哲学にとって決定的に重要な点の一つに触れることになる。
 アンリ固有の身体概念は、受苦(souffrance)という根源的次元において明瞭な形で現われる。私たちは、それゆえ、アンリにおける身体問題の核心へと直ちにまっすぐに切り込むために、この受苦という次元へと立ち入る。
 痛みを例に取ろう。アンリは、痛みについて、その痛みという本性のみ、あるがままの痛みのみを苦痛の純粋に情感的な要素として捉える現象学的還元を行う。痛みそのものを把握するためにこのような還元が必要とされるのは、通常の苦痛の把握の仕方では、痛みはまずもって身体のある部分に結び付けられた物理的に特定可能な苦痛と見なされてしまうからである。物理的に局所化される一切の身体的要素を排除する還元によって、純粋な受苦は己自身にそれとして現われる。つまり、受苦のみがそれが何であるかを私たちに分らせるのであり、受苦という事実の顕示において顕示されるのは、まさに受苦以外の何ものでもないということである。「痛みこそが私に痛みについて教えるのであって、痛みを現前するもの、今ここにあるものとして志向する何かしら意識のようなものがそれについて私に教えるのではない」(Michel Henry, Phénoménologie matérielle, Paris, PUF, 1990, p. 36)。
 この痛みという経験において世界での「己の外」という在り方はあり得ないことは、受苦には己自身から己を分かついかなる隔たりもないということから分かる。己自身に分かちがたく結ばれている受苦は、己に対して何らかの距離を取ることはできない。苦しみを与える己自身から逃れることは決してできないのである。受苦の受苦に対するいかなる内的隔たりさえもあり得ないということは、それに対する眼差しを向けることができないということでもある。誰一人として、己の受苦、苦悩、あるいは喜びを「見た」ことがある人はいない。受苦は、生命の様態として、不可視なのである(voir L’essence de la manifestation, op. cit., p. 680)。情感の純粋な現象性は、見られることはなく、姿を現すことはない。