3. 3 自己開示的生命 ― 他者への回路の欠落(3)
もし、生命が、「すべてがそれに依存し、それ自身は何ものにも依存しない」(L’essence de la manifestation, op. cit., p. 816)真実在として定義されるとすれば、アンリが言うような、「自己の外」を自己から徹底的に排除することによってのみそれ自身でありうる生命は、この定義に完全には適っていないことになる。なぜなら、そのような生命は、あらゆる点において独立でありうるほど自己充足的ではないからである。つまり、その生命は、「自己の外」を、他なるもの・外なるもの・異なるもの・理解し難いものとして、自己から排除する必要があるというまさにそのことによって、「自己の外」に依存しているからである。「本質は、それ自身へと向かう思惟以外の何ものも内に含んではおらず、己とは異なったものすべてから、それらが他なるものであり、結局他性や外在性として理解される存在であるというそのことによって、必然的に乖離する」(ibid., p. 351)。アンリにおいて、この引用の中の「本質」は、「生命」に置き換えることができる。西田が真実在を「自己自身に於て他を含むもの、自己否定を含むもの」(全集第十巻一二〇頁)と定義するときに批判的に問題化しているのは、まさにこの点なのである。