3. 5 二つの次元に引き裂かれた身体(6)
ミッシェル・アンリが不可疑の前提として自らの哲学に課した、内部と外部との間の徹底的な存在論的切断について昨日まで見てきたところから、私たちは次のようにアンリに問わなくてはならないだろう。この切断そのものが、それがそこから出てくる起源にまで遡って生命の哲学を徹底化させることを妨げたのではないか、と。
内部と外部との間の根本的な違いは、両者が現実的に分離可能だということを必ずしも意味しない。己の自己同一性と独立性とを確保するために一方が他方を排除するかぎり、両者はどこまでも互いに他方に対して相対的・相関的である外はない。なぜなら、一方の自己同一性と独立性とは、必然的に他方の全面的排除を要求するからである。内在性に与えられた先行性は、それだけで外在性に対する全面的な無関心を正当化するものでもない。なぜなら、疑い得ないものとして要請されたこの先行性は、実のところ、最初から内在性と同一化されている独立で自律的な主体性に与えられた絶対的な先行性から単に論理的に引き出された帰結に過ぎないからである。しかし、この主体性と内在性との同一性こそ、根本的に問い直されなければならないテーゼであると、私たちは考える。
内在性と外在性とは、それが互いに根本的に異なっているからこそ、両者相まって一つの同じ現実を構成していると、むしろ言うべきなのではないであろうか。両者の間に根本的な違いがあるからこそ、その違いの可能性の条件を問い、〈他なるもの〉の排除あるいは自己の「退却」がそこにおいて成立する共通の場所はどこにあるのかと問わなくてはならないのではないだろうか。
付記 昨日22日付の記事は、シャルル・ド・ゴール空港で搭乗便を待っているラウンジからの投稿。本日付の記事は、夕刻到着した東京の実家からのこの夏最初の投稿。