内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(六十)

2014-07-25 00:00:00 | 哲学

3. 6 自覚からも行為的直観からも逃れる広がり(2)

 私たちの身体は、二重の意味で、世界への存在である。まず、世界は、道具と技術を介して、私たちの身体の延長であるという意味において。そして、それと同時に、逆に、私たちの身体は、まさに道具として世界の一部を成しているという意味において。そうであるからこそ、世界は、私たちの身体に対して、それに連なる内部として現われると同時に、私たちの身体は、世界において外から見られるものとして外に出ているのである。世界が道具と技術を介して私たちの自己身体となるとき、私たちの自己身体は、世界内のある場所に局所化され、世界に対する一つの特殊な観点としてではなく、世界自身が世界を見る観点となり、世界は、かくして私たちの自己によって内側から把握された意識の世界として現われる。しかし、それでもなお、私たちの自己身体は、道具と技術の世界の一部であることをやめたわけではなく、他の諸事物に対して外在的なものとして、己を外から自己把握する(本稿第四章1. 2 「身体と世界との根本的関係」参照)。
 このようにして、世界の場所的転回は、私たちの行為的・受容的身体において、その身体が行為的直観の焦点であることによって現実化される。行為的直観は、現われるものはすべて私たちの行為的・受容的身体に対して自己形成的である世界を開き示す。この行為的・受容的身体は、世界の中の自己形成的要素として、その世界の形成の論理を表現する。私たちの個別的自己において世界は己自身を感受すると同時に、私たちの個別的自己は、それ自身として、世界の只中で経験される。自己へと現われることが私たちの自己において根源的内在性として経験されるのは、必然的に、私たちの身体的自己において現実化される世界の場所的転回を通じて、世界の只中でのことなのである。