内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(六十四)

2014-07-29 01:10:00 | 哲学

3. 6 自覚からも行為的直観からも逃れる広がり(6)

 ところが、このように規定されうる自己身体の内的空間に相当する概念を西田のテキストの中に見出すことはできないのである(本稿第三章第二節から第四節まで参照)。行為的直観の世界において行為的・受容的身体によって担われている根本的な役割も、私たちの身体的自己において哲学の方法として実行される否定的自覚も、西田を自己身体の内的空間についての問いへと導くことはなかった。
 なぜ、西田は、行為的直観と自覚との同一化と区別との両者がそこで現成する空間として自己身体の内的空間をそれとして取り出すことができなかったのだろうか。非時間的な形而上学的審級にも非人称的な時空間で外部から見られた限界づけられた延長にも還元できないこの空間に対して、なぜ、西田は、無関心あるいは「無感覚」なままに終わったのだろうか。
 自己身体は、行為的直観の世界の中で他の諸対象との関係において限定される一つの自己形成的な形として考えられるが、この世界においては、どの形もその他のすべての形との関係において限定されており、その形において己を表現しているものを歴史的に限定された仕方で表現している。自覚された自己は、それに対して、否定的自覚によって直接的に経験されており、己との関係において内的に限界づけられた空間を自ら己に与えることはない。ところが、自己とそれに対して抵抗する関係項との間に開かれる空間は、己自身によって内的に把握可能な空間であり、世界の個別的形成要素である一つの形 ― 外から見られた、したがって内側から把握不可能な形(本稿第四章第一節参照)― としての身体にも、距離なく純粋な作用として己自身を経験する自己にも還元されえない。
 かくして、自己身体の内的空間は、その本性からして、西田の歴史的生命の論理を構成する概念装置の網の目を完全にくぐり抜けてしまうのである。それは、たとえ歴史的生命の世界において私たちの身体的自己に与えられている基幹的な位置づけを考慮に入れるとしても、やはりそうならざるを得ないのである。
 西田の歴史的生命の論理においては、行為的直観によって、身体的な自己は、直接的に世界へと己自身を開く。つまり、自己身体の内的空間の媒介を経ずして、身体的自己は、世界の中で自己客体化する。そして、同じくこの論理に従うかぎり、否定的自覚は、自己身体の内的空間を内側から「自分のもの」として、しかし超越的世界へと繋がるものと感じさせる活動から己を区別し、そこから全面的に離れてしまう。自己は、したがって、哲学の方法としての否定的自覚がそこにおいて実行される有限な広がりである自己身体の内的空間とは独立に直接的に己自身を経験するものとされる。
 以上見てきたところから、ここまでの本節の議論を、以下のようにまとめることができるだろう。
 西田哲学においては、その最後期においても、自己身体の内的空間は、自覚と行為的直観との間に「否定的に」析出されるほかはない。つまり、自己身体の内的空間は、自覚と行為的直観との〈間にあるもの〉としてしか経験され得ないが、この〈間にあるもの〉を西田哲学によって捉えることはできない。しかし、まさにこの〈間にあるもの〉である自己身体の内的空間においてこそ、自覚と行為的直観とは、互いに他から区別されうるものとして現われるのである。