3. 3 自己開示的生命 ― 他者への回路の欠落(5)
西田による真実在の定義を生命のそれとして読むとき、ミッシェル・アンリの生命の哲学に対して、西田の立場から次のような根本的批判が向けられることであろう。
真実在は、己自身の自己否定によって完全に自己外化し、そうすることで、己の内に他なるものを迎え入れる。真実在においては、内部と外部との切断は、抽象的かつ二次的・副次的なものであり、内と外との矛盾的自己同一は、それ自体が本来的かつ原初的な事実として感受される。己自身において在るものは、己自身の絶対的な自己否定によって、己がそこにおいて現われる場所・己が現われる様態・己が現われるときに取る形と同一化される。そのとき、現象と実在は不二不可分である。己自身によって在るところのものは、己自身の絶対的な自己否定によって、己が現実的に存在させるすべてのものと同一化される。そのとき、原因と結果は不二不可分である。真に己自身によって在るものは、己の自己充足的な同一性を剥奪する他なるものを己の内から排除しない。真に自己自身によって在るものは、必然的に、己が現に働いているその場所に、はじめから、他なるものを受け入れるものでなくてはならない。ひとたびその内部から自己否定性が排除されれば、己自身によって在るものの真の現実性は、不可避的に失われてしまう。
己自身によって在るところのものは、それゆえ、〈他〉へと無限に多様化しつつ、その多様化を通じてこそ〈一〉にとどまり、その無限の過程における種々の変化を己の生命・働き・到来とするものであると定義することができる。