内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(四十四)

2014-07-09 00:00:00 | 哲学

3. 3 自己開示的生命 ― 他者への回路の欠落(1)

 ミッシェル・アンリによれば、それのみが現実を与える感覚への呼びかけには、それ自体のうちに、生命への呼びかけが、つまり、世界の現われとは根源的に異なった現われ方への呼びかけが隠されている。アンリにおいては、生命は、徹頭徹尾、現象学的なものである。生命は、存在者でも存在者の存在様態でもない。アンリにとって、存在あるいは主体とは、存在者にとって他なるもの、つまり、世界の中で見えるもの・接近可能なもの一切にとって他なるもので、どこまでも純粋なものでなければならないのである。
 アンリの生命の現象学における〈生命〉の本質は、次のようにまとめることができるだろう。
 ただ生命のみが存在する。超越論的な現象学的生命こそが純粋な現象性の本源的な様態を定義する。この様態が「自己顕現」(« auto-révélation »)である。生命に固有な顕現は、世界の現われとは、あらゆる点で対立する。「生命の現象学によれば、二つの根本的で相互に還元不可能な現われの様態がある。世界の現われの様態と生命の現われの様態である」(Incarnation, op. cit., p. 137)。世界は「己の外」において顕にされ、したがって、世界が顕にするものはすべて、外なるもの、他なるもの、異なるものである。それに対して、生命の顕現の第一の本性は、生命には、己の内にいかなる隔たりもなく、己と異なることはけっしてなく、己自身以外のものを顕にすることはない、ということである。
 生命は、己を顕にする。生命は、自己顕現である。この生命の自己顕現は、つまり、次の二つのことを意味している。一方では、生命こそが顕現を成就するということである。他方では、生命が顕にするものは生命自身に他ならないということである。このようにして、現われるものと純粋な〈現われること〉との対立は、生命においては本来的にあり得ない。生命が顕現するものと生命において自己顕現するもとは、唯一無二なのである。