3. 6 自覚からも行為的直観からも逃れる広がり(1)
行為的直観を人間の根源的な存在様式とする西田哲学は、ミッシェル・アンリに典型的に見られるような内部と外部との存在論的切断に対する根本的な批判を含んでいる。以下において、西田哲学の立場からアンリの内在性の哲学がどのように批判されうるか、一つの仮想的批判を私たちの手で構成してみよう。
本源的な身体は、行為的直観の焦点として、〈見るもの-見えるもの〉でありかつ行為的・受容的身体であり(本稿第四章第一節参照)、その還元不可能性によって、つまり、内在性にも外在性にも還元し得ないというそのことによって、この存在論的切断にどこまでも抵抗する。私たちの身体は、行為的直観の焦点として、本来的に、主体でも客体でもなく、この主体・客体という区別・分離・切断に先立つものである。と同時に、この行為的直観の焦点としての私たちの身体が、その身体自身がそこに生き、住まう世界の内で、この両者の区別を可能にし、現実的なものとしてもいる。この意味で、私たちの身体は、西田が言うところの絶対矛盾的自己同一が内と外との対立として顕現する「場所」であると言うことができるだろう。したがって、西田の行為的直観の論脈においては、単に主体性にも客体性にも還元しがたい両義性が問題なのではなく、とりわけこの両義性の現前し生ける起源が問題化されているのである。この起源は、恒常的に現動しており、区別、対立、排除、退却等に処を与え、かつそれらを己の内に常に受け入れ続けている。
付記 今朝、朝一番の飛行機で大阪に移動。この記事は、滞在している提携大学のゲストハウスからの投稿。