内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(四十七)

2014-07-12 00:00:00 | 哲学

3. 3 自己開示的生命 ― 他者への回路の欠落(4)

 ここでまず思い起こすべきことは、西田の真実在の定義によれば、それ自身によって在るところのものは、本質的に、己の内に他なるものをそれとして含んでいなければならないということである。もし、それ自身によって在るところものが常に単に自己同一的であり、己の内から完全に他なるものを排除することによってのみそれとして在り得るに過ぎないとすれば、十全かつ全体的にそれ自身によって在ることは不可能になってしまう。なぜなら、他なるものの不在を前提とするというまさにそのことによって、その存在は、他なるものに事実上依存しているからである。
 このような西田の真実在の立場からすれば、アンリにおいて顕著に見られる主体性あるいは生命の純粋化は、次のように批判されることになるであろう。
 主体性あるいは生命の純化は、無限に受容的かつ根源的に創造的な真実在へと私たちを導く途ではなく、まったく逆に、己自身しか生むことができず、何も創造しない貧困の極みへと導くばかりであり、そこには、有限な諸存在によって生きられている無限に多様な具体的個別性・特異性も、真実在が他なるものにおいて己自身として生まれるところの生ける普遍性も見出されることはない。主体性や生命を純粋化し、それによってそれらを絶対化することは、それらの充溢化を意味するのではなく、むしろ己自身しか受け入れることができないというそれらの空虚さをこそ露呈してしまうのである。真実在が真にそれ自身においてあり、それ自身によって在るためには、己自身の内に十全かつ全体的に他なるものを受け入れないわけにはいかないのである。
 それはどのようにしてなのか。