内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(三十六)

2014-07-01 00:00:00 | 哲学

3. 2 世界の現われ ― 生命の外化(1)

 ミッシェル・アンリによれば、「世界の現われ」という問題が最も精錬された仕方で考究されているのはハイデガーにおいてである。『存在と時間』§ 44 では、現象は、その語源であるギリシア語 phainomenon の有っている意味に従って理解されている。つまり、「現れる」とは、光あるいは明るみの中に到来することである。ここで言われる光あるいは明るみとは、その内において何ものかが明白となり、自ずと見えるものとなるもののことである。世界とは、この可視化の脱自的地平であり、この地平においてすべてのものは見えるものとなる。このようなハイデガーによる現象理解に対して、アンリは次のような注釈を加える。「この地平の可視化が世界の現われである。現れることは、ここではもう、世界の光の中に到来し、その内で見えるものとなるということだけを意味しているのではない。現われは、世界そのものの到来、光の湧出、地平の可視化を意味しているのである」(Incarnation, op. cit., p. 56)。
 アンリが列挙する世界の現われの三つの特質は、アンリがハイデガーの解釈学的現象学からどこで離れ、いかなる生命も世界の現われの内には現われ得ないということを第一テーゼとする独自の生命の現象学の構築へと向かう理由をよりよく理解させてくれる。この理解が、さらに、アンリと西田それぞれの哲学探究が、世界の現われと生命という純粋な現象性との関係という問題について、どこで交叉し、どの点で対立するかを、よりよく把握することを可能にしてくれる。そこで、この三つの特質を、明日から一日に一つずつ見ていくことにする。

追記:今月半ばのストラスブールへの引っ越しを控え、そのための荷造り・諸々の手続き、知人への挨拶や友人たちとの会食等、これから連日予定が入っており、しかもそれと同時進行で今月二十八日からの東京での五日間の大学院集中講義の準備もあり、この連載のための時間がこれからしばらくは思うように取れなくなる。しかし、一日の記事をごく短いものにすることで、毎日連載の原則は、なんとか守っていきたい。